2016年10月21日金曜日

シミュレーション(1)東武西板線が開通していたら

このでは、板橋区内の鉄道の歴史を塗り替えていたかもしれない建設計画について、実現した場合の妄想シミュレーションを試みます。「歴史に、もしはない。」と堅いこと言わずに、おつきあいいただければ幸いです。

(個人的にこの言葉は、確かに真理ですがあまり好きではありません。そこで思考を止めてしまい、史実がよい選択だった場合も芳しくない選択だった場合も、検証して今後よりよい選択ができるための力を削いでしまいかねないからです。)


東武鉄道は1920年(大正9年)に、池袋-田面沢(埼玉県入間郡川越町)開業から6年が経過して、坂戸町(埼玉県入間郡)まで延伸させていた東上鉄道を合併しました。1911年の東上鉄道会社設立の際、東武鉄道の根津嘉一郎が社長に就任して本社登記を東武鉄道本社内としたことや(実質上の本社機能は川越の事務所でまかなっていた)、1918年(大正7年)に第一次世界大戦が終結して戦勝景気が終わると一転して逆風となり、東上鉄道は運営の諸経費上昇を単独でまかなえなくなってきたことが理由とされています。このあたり、戦勝景気で開発が進んだとされる志村地域とはやや事情が異なるかもしれません。

東上鉄道を傘下におさめた東武は、ただちに本線系統との接続を行おうとしました。北足立郡西新井村から北豊島郡上板橋町まで11.6kmの路線を計画して免許を申請し、第一期建設線として北足立郡内の着工準備を始めました。

両路線をつなげることで、単に一体感を叩き込むのみならず、車両管理や保線の面でも利便性が高まると考えたのでしょう。また、この時点での池袋は「豊島師範学校」が駅の西側に立地していて、1918年には立教大学が移転してきて”文教地区”を形成していたものの、市街地としては複数の鉄道路線が集まる割には小規模であったのに対して、川越は陸運・水運双方の物流拠点として重要な街であったため、川越への路線を確保しておけば他の私鉄との競争で優位に立てるだろうという見込みがあったものと思われます。1964年に発行された「東武鉄道六十五年史」によれば、東上鉄道の合併によりそれまで東武鉄道が事業を展開していた北関東のみならず、東京南西部にも進出する基盤ができたため、鉄道路線の連結は社内で重要課題と位置づけられていたといいます。
(ただし同書には「西新井池袋間の線路敷設を企図し」と、明らかに誤りとみられる記述で説明されています。)
明治時代末に“流行”していた東京市外北部地域の鉄道敷設申請は川越を目的地とする計画が多く、実現した東上鉄道、川越鉄道(現・西武新宿線および国分寺線)以外にも多くの企業や財界関係者が出願していたといいます。

ところが1923年(大正12年)に関東大震災が発生すると、東武は既存路線の復旧作業に予算を回さざるを得なくなりました。免許は翌年下付されたものの、沿線予定地が被災規模の大きかった都心方面からの移転者で急速に宅地化して、北豊島郡内では工場の建設も進んだことから用地買収費用が高騰。沿線予定地からの経路変更要望も再三提出されたといいます。さらにその時点では荒川護岸工事が完成していなかったため、鹿浜橋の建設に着手できないという事情も加わり、1932年(昭和7年)に起業廃止を申請して認められました。結局、第一期建設線のうち東端の西新井-大師前間のみを1931(昭和6年) に開通させて、現在に至ります。

「東武鉄道六十五年史」には「遂にその線の実現を見るに至らなかったことは、交通網の現状から考えてまことに残念なことであった。」と記されています。

大師前から先は江北、鹿浜、神谷、板橋上宿の途中駅が計画されていたといいます。現在の板橋区内は第二期建設線ということになりますが、常盤台一丁目・二丁目に相当する上板橋町内の土地を、車両基地・貨物操車場用に確保したのみでした。

ここで着目するポイントとして、

・東武西板線計画は、板橋区内において中山道新道計画に先んじていた。

・志村地域の工業化前に立てられていた。

ことがあげられます。
免許交付時点でのイメージは、王子電気軌道のさらに外側を通る都市近郊路線で、観光目的も含めた軌道線の王電に対して、産業振興目的を中心に据えた鉄道路線というところだったでしょう。

それでは、東武西板線が諸事情をクリアして、開通までこぎつけていたらその後どのように展開したか考えてみたく存じます。
1928年(昭和3年)ごろの開通を想定します。

当初の計画では「汽車」の運転を予定していて、下付された免許にも「蒸気」と記されていましたが、東上本線の電化は翌1929年に行われていますから、免許条件の変更を申請して、最初から電車・電気機関車が投入された前提で進めていきます。

☆「大化け」の可能性

西板線を開通させても、最初は2両編成の電車が1日に数本程度で、検査・補修のため伊勢崎線から上板橋電車庫に回送される電車が大多数を占める状態だったでしょう。加えて、秩父方面からのセメント材料を城東地区に運ぶ貨物列車がのどかに運転されていたと考えられます。

しかし、この路線はひとつのきっかけで「大化け」する可能性を秘めています。沿線のうち、王子には軍用地がたくさんありました。

外部との連絡は赤羽駅まで軍用線を何本も作ることで対応していましたが、震災など万一の際、および防衛をより強固にするための補完路線として、西板線に白羽の矢を立てたかもしれません。

陸軍が練馬に基地を作ると、上板橋から練馬北町へ向かう貨物線を建設しました。
この貨物線と西板線を接続させて、直通できる形に構内配線を変えるよう、ほとんど命令に近い要請を受けたら状況は一変します。軍需物資を輸送する貨物列車や、部隊および周辺の工場で働く人の輸送で、あっという間に本数が増えたかもしれません。

富士見通沿いの工場勤務者の利便を図り、上板橋駅と上宿駅の間(現在の大東京信用組合付近)に「前野原」乗降場が作られ、やがて駅に昇格。上宿駅と神谷駅の間には「稲荷台」信号場ができて、左右に軍用貨物線が敷設されたことでしょう。

一方、北足立郡→足立区地域は相変わらず水田の中をのんびり走る風景がみられたかもしれません。「いつ駅に行っても回送ばかり」と陰口もたたかれたでしょうか。鹿浜発浅草行きの区間運転が多く設定されていたと推定します。
 

明治末(1911年=明治44年)から大正時代にかけて、この地域では荒川放水路の開削工事が行われています。前述の通り、その護岸工事の進行が遅れて西板線計画が圧迫される結果をもたらしました。


1924年(大正13年)に岩淵水門が完成して通水が行われると、現在の足立区の新田地区は中州状態となり事実上周辺地域から孤立してしまったため、渡船が生活上必須の交通機関となりました。現在の環七新神谷橋付近に「宮堀の渡し1960年=昭和35年まで営業)、新田橋付近に「野新田(やしんでん)の渡し」(1941年=昭和16年まで営業)が就航していました。

この地域の人にとって、安心して河川を越えられる西板線は「悲願の鉄道」だったかもしれません。起業中止で最もがっかりさせられた可能性さえ考えられます。もし完成すれば史実よりも早く市街地化・工業化が進んだことでしょう。上板橋行きはこの地域の人々が主力利用層となったと考えられます。

☆中山道新道との立体交差

上で「上宿駅」と記しましたが、計画段階の「板橋上宿駅」は旧中山道に接する位置に改札口を置くように設計されたことでしょう。しかし、環七の富士見通り交差点(大和町)-神谷間の工事は西板線の建設時点には既に始まっていて、道路南側(本町の縁切り榎付近)には地形の問題もあり線路の敷設は困難とされ、北側の志村清水町内旧道脇に「上宿駅」として開設することになったと推定します。

(注)「東武鉄道百年史」に掲載されている西板線路線計画図では、環状道路の南側を通るように記されていますが、道路の計画は赤羽付近を通ることになっているため、実際の環七もまた着工段階で経由地変更が行われたものとみられます。

旧道とは当然平面交差で踏切が設置されたでしょうが、新道の建設時に、先に鉄道ができていると面倒になります。新道は志村の工場生産物輸送が主要目的でしたから、踏切は国も東武も、お互い避けたいところです。

ここは東武の線路の下を掘り、アンダーパス式の立体交差で通過する設計が立てられたと推測します。現在の西武線野方駅の環七アンダーパスのイメージが近いでしょう。戦前の技術でも可能だったはずです。

現在、高速道路が中山道に合流する泉町の新道・旧道分岐点からやや南側の清水町バス停(宮本町イナリ通り商店街前)付近から掘り下げて、首都高速板橋本町出入口あたりで東武の線路をくぐり、大和町の環七交差点手前、富士銀行ビル付近で終わる構造を想像します。いずれ列車の編成が長くなると上宿駅ホームが新道のほうに延伸されて、野方駅と同じような光景がみられたかもしれません。

☆市電延長計画は?

次の問題は、東京市電の延長です。
東武線ができることで、上宿地区の旅客需要のうちある程度は押さえられることでしょう。その一方、当時の上宿周辺は何かといわくつきの土地でした。ここでは割愛しますが、検索すればどのような街であったかについて詳しい記録が見つかります。

西板線がこの地域を通れば、それを吹き飛ばす勢いで宅地化が進んだ可能性もあります。環七の中山道交差点以西の用地買収・着工も史実よりはるかに早く行われたかもしれません。

それならば市電はいらないかといえば、そうでもありません。志村地区は上宿駅からかなり遠く、東武では間に合わないからです。

巣鴨車庫-西巣鴨-下板橋の建設は史実通り(1929年=昭和4年)でしょうが、下板橋-上宿駅前(史実の富士見通大和町)間が現実よりも早い段階、市電時代に開通していた可能性もあります。当時の電気局の状況では路線延長に資金をなかなか回せなかったというお話は他の記事でも紹介しましたが、上宿駅周辺が賑わってきて、工場も増えて、そこまで作れば利用客が見込めるという判断もありえたでしょう。19321933年(昭和78年)ぐらいにはできていたでしょうか。その場合、上宿駅前までが「市電板橋線」になります。その一方で、大震災で住居を失いこの地域にたどり着いたという人たちは、また新たな住処を求めてさまようことになったでしょうか。

志村線は上宿駅前から北になりますが、工場通勤客の急増による地元の請願はあっても、なかなか予算をつけられない状況には変わりなかったでしょう。

☆下十条の接続

西板線は、現在の東十条駅の北側で東北本線とクロスする形になります。
東十条駅は開設当時「下十条」で、1927年(昭和2年)に地元で鉄道省に駅設置請願を出して、京浜間電車(→京浜東北線)が1931年(昭和6年)に赤羽駅まで延長した際に開業しました。鉄道省は駅ホームに隣接して「下十条電車区」を設置しています。

以前、京浜東北線電車の隅に記されていた「北モセ」という記号は、東京北鉄道管理局 下十条(旧かなづかいで“シモ”。”シモジウゼウ”は誤り。)電車区の略号です。都電運転時代は東京鉄道管理局で「東モセ」でした。

西板線が1928年に開通したとすると、下十条駅設置請願中にあたります。地元はできれば東武との接続駅にしたいと考えたでしょうが、東武は神谷駅を先に作るため、開通当初は新駅の余裕など到底なく、やがて軍用線化すると旅客に構っていられなくなります。実際の駅よりも赤羽に近い位置、すなわち環七陸橋の下あたりにホームを作る計画に変更された可能性はありますが、接続は図られなかったことでしょう。

さらに、実際の場所よりも北側は当時「上十条町」でしたから、「上十条」と名づけられたかもしれません。史実では旅客駅の開業により「下十条」の名を譲った北王子貨物駅そのまま下十条を使い続けた可能性もあります。
 
乗換駅になるとすれば戦後のことでしょうが、東武は神谷駅の近くという理由により地元の請願があってもすぐには応じなかったものと考えます。荒川の渡船から鉄道利用に変えたという北足立郡→足立区の人たちからの要望も寄せられたはずですが。

☆王電との交差

東北本線との立体交差で荒川低地側に出た西板線は勾配を下り、神谷駅に向かいます。この駅は現在の北本通り(国道122号線)付近に設置されたことでしょう。当然、王子電気軌道赤羽線と交差することになります。この道路が電車軌道敷設が可能になるまでの幅員を得た時期や、昭和初期の名称についてはあいにく調べられませんでした。不公平のそしりを承知の上で、以下「北本通り」と記します。

後に都電27系統が使い、撤去計画の最終段階まで営業していた都電赤羽線は王子電気軌道が北本通り上に敷設した路線で、1926年(大正15年)3月に王子柳田(鉄道省東北本線王子駅北側)から神谷橋まで、翌1927年(昭和2年)12月に神谷橋から赤羽まで開通させています。王子柳田と王子駅前停留場の接続は1932年(昭和7年)に行われ、その際王子柳田停留場は廃止されました。
改めて、この地域の交通は昭和初期に一気に整備されたことが見て取れます。

この項では西板線の開通を1928年と想定してお話を進めていますが、開通時期のわずかの違い、および最初から電化させるかどうかで、王電の選択は大きく異なってくるでしょう。

東武が非電化で開通させるならば平面交差でも問題ありませんが、最初から電車にする場合は厄介になります。

東武の線路は東北本線を越えてすぐに地上に降りると急勾配ができてしまいますから、神谷町内では高架線を作り、ゆっくりと下った先に神谷駅を置く構造を計画したでしょうか。それでも北本通りにさしかかる地点は平面になり、踏切を作ったと考えられます。

中山道で想定したアンダーパスも考えられなかったでしょう。道路としては中山道新道よりも格下とされ、1963年(昭和38年)になって、当時の「二級国道」の指定を受けたといいます。武蔵野台地側で地盤が安定している中山道に対して、こちらは荒川低地の軟弱地盤です。周辺には貨物線も多く平面交差していますし、踏切の設置は当然のことだったと推定します。

両路線の着工時期も考慮しなければなりませんが、両社の協議も行われたでしょうか。
電気鉄道線どうし、および電気鉄道線と電気軌道線の平面交差は安全性の観点から当局が許可を出さないことがほとんどのため、国まで騒がせてもめる可能性さえあります。 
不調に終わった場合、王電は神谷橋以北の延長をとりあえず見合わせざるを得ません。

1928年時点で大日本人造肥料専用の「須賀貨物線」は既にできていて、現在の王子四丁目付近で北本通りと交差していました。前年に国有化されましたが、まだ電化されていません。それゆえに王電は平面交差で軌道を作れたのですが、東武がその先で電車を通すと聞けば、旅客・貨物・回送を含めた列車本数は須賀貨物線の比ではありませんから、さすがに二の足を踏んだでしょう。

須賀貨物線は1931(昭和6年) に電化され、王電は交差地点にデッドセクションを設けて乗り切ったそうです。1971年(昭和46年)まで営業していたため、都電との平面交差地点の写真もたくさん残されています。

お話を戻して、王電はもう1ヶ所デッドセクションを設けても、当局ともめてでも、神谷橋から赤羽方面に延長したかったか、ここまででよしとするかは難しいところです。そのうちに世の中が戦争の方へと進み始めるとそれどころではなくなり、しばらくそのままで放置されたでしょう。

戦争が終わり、北本通りの交通量が増えると東武の踏切が問題視され、早い段階で立体化の計画が立てられたでしょう。1955年(昭和30年)ごろには東武線を乗り越す道路陸橋が完成したと推測します。その頃、交通局に赤羽まで延長させる気力はあったでしょうか。

☆「国有化」圧力への抵抗

1938年(昭和13年)に施行された「陸上交通事業調整法」でも、既に他の記事で述べた理由により、東上本線とともに引き続き東武の経営が認められたと推定されます。

戦争が始まり、やがて情況が悪くなってきて政府が焦りはじめると、「戦争完遂のため特に必要な路線」として西板線の国有化を目論んでくるかもしれません。成増飛行場ができて、練馬北町-飛行場構内の軍用線が延長されると、赤羽-稲荷台-上板橋-練馬北町-飛行場のルートは重要路線になります。

一方、東武にとっては本線と東上線をつなぐ路線が国に持っていかれたら元も子もなくなります。面従腹背で、国の言うことを聞きながら経営権だけは確保する作戦を取ったでしょうか。すなわち旅客列車の大幅削減につながります。自ずと市電→都電への期待が高まり、志村線は現実(1944年=昭和19年)とそう大差なく志村坂上まで延長されたことでしょう。上宿駅ホームからはアンダーパスを通る都電の姿が見られ、戦後撮影名所になったかもしれません。
 
やがて空襲で線路が破壊されます。東上本線の金井窪駅と同様に、前野原駅や上宿駅も被災したかもしれません。都電の上宿駅前(富士見通)停留場は不要不急とはみなされずに存置され、代わりに清水停留場が一時廃止(蓮沼町に統合)されたことでしょう。

☆池袋を向かない不運

戦争が終わると、東武には連合軍専用列車(進駐軍列車)が走るようになります。成増飛行場が接収されてグラントハイツになると、今度は池袋から直通の列車が運転されることでしょう。戦前・戦中の軍需貨物輸送には下板橋、大山、中板橋で細かいカーブが続く東上本線よりも直線に近い西板線のほうが有利ですが、進駐軍の兵士や家族たちは、簡単に繁華街に出られることを望むでしょうから、東上本線が息を吹き返します。

西板線は稲荷台から軍用地内への貨物支線が廃止され、食料の買出し客で超満員の電車が西新井・北千住に向けて痛々しく走る姿がみられたことと思われます。上宿駅前は都電からの乗り換え客で収拾がつかない状態に陥ったかもしれません。駅周辺に新たなスラムが自然発生した可能性もあります。

世の中が落ち着いてくると、西板線は東上本線とともに通勤路線に衣替えするでしょうが、ここで新たな問題が生じます。池袋の力が強くなってくると、北千住方向から分岐して、上板橋から川越方面へ向かう配線は不利です。上板橋駅は毎朝乗り換え客で大混雑して、それを避けるために都電を使う人も少なくないでしょう。

埼玉県の志木・上福岡・川越などから都心に通勤する人にとっても、神谷や北千住まで連れていかれたらかえって不便で、池袋直通の東上本線を選ぶでしょう。

北区・板橋区内では、西板線は案外使いづらいという評判になったかもしれません。戦後まもない頃は貨物列車のスジが空いた分を使って、川越市発業平橋行きなどの運転を設定したとしても次第に減らされ、やがて東上本線から西板線に直通する列車は廃止されたことも考えられます。

その一方で鹿浜橋を渡り足立区に入ると、競合・交差する路線もなく西新井までスムーズに進めるため、足立区内ではさらに重要な路線となるでしょう。現実よりも早く住宅地・商業地化が始まった可能性もあります。

しかし、日光・桐生方面への特急列車も通る伊勢崎線に割って入る余裕はほとんどなく、営団日比谷線の乗り入れが始まっても、西板線直通は朝の通勤時間帯に鹿浜発東銀座行きが23本程度に留まったと考えられます。

☆地下鉄6号線と高速道路への影響

自動車の数が増えて、交通局の財政が悪化して、都電を地下鉄に置き換える計画が具体化する頃にはどうなっていたでしょうか。西板線ができていれば、前述のように大和町から清水町・宮本町にかけて中山道の大きなアンダーパスがあるため、地下鉄の工事は難航が予想されます。東武があるのだから、地下鉄まで必要かという意見も出たことでしょう。

当初「下板橋」までの計画を「上宿」に変更して、アンダーパスの南側、すなわち現在の板橋本町駅まで建設する計画を立てたでしょうか。実際の都電志村線廃止反対請願でも、都議会の人が「もぐら工法(シールド工法のことです)を取り入れて、地下鉄の完成まで都電の撤去を見合わせることは本当にできないのか。」と質問したことが議事録に残っています。(国立公文書館所蔵、公開資料より)

アンダーパスがあれば地上からの開削式は周辺の道路事情から見てもほぼ不可能で、シールド工法で深い地盤を掘る見込みが立つまで、着工にゴーサインは出せないでしょう。

しかし、いつまでも都電のままにしておくことも無理だったでしょう。徳丸水田地域の開発が高層団地に決まったらなおのことです。東上本線との乗り入れは考慮する必要がないため、地下鉄6号線は標準軌が採用されて、泉岳寺-日比谷-上宿間でまず建設・開通、ついで高島平方面という流れになったことと考えます。上宿駅は東武との乗り換えにやや歩かされるため、地下道に長いエスカレーターができたかもしれません。

一方高速道路は、史実と大差なく作られたものと推定します。
アンダーパス脇の側道に橋脚が立てられて、車道がなくなってしまうことはありえますが、環七大和町陸橋(上宿駅南に史実通り作られたと推定します)も東武の線路も悠々と乗り越えていくでしょう。ただし、現実の板橋本町出入口は東武の想定線路上にあたるため、他の場所に設置されると推測します

都電廃止後のバスが「板橋本町」を「上宿」に改称することはありえなかったでしょう。東武の駅が「上宿」ですから、大和町が「上宿駅前」になり、板橋本町は今でもバスだけの名称に留まっていたと思います。

☆最後のチャンス

1960年代末には一旦寂れると予想される西板線に再び利用価値がもたらされるとすれば、グラントハイツの返還と、跡地の光が丘団地造成でしょう。これが最後のチャンスとみなせます。

史実でも成増飛行場への路線は、戦後飛行場が進駐軍に接収されると敷地内に「啓志駅」が設置されて、啓志線の通称をつけられていました。進駐軍撤退後に東武はこの路線の営業免許を取り、グラントハイツの返還後には旅客輸送使用を計画していたといいます。

前述の通り、西板線があれば陸軍使用時代から西新井方面と線路が直通していたと見込まれます。啓志線の廃止を検討しはじめたタイミングでグラントハイツ跡に団地造成の計画がもたらされれば、東武は早速手をあげたでしょうし、政府も余計な投資をせずに済むと考えたかもしれません。

自衛隊駐屯地内を通る区間はルートを変える必要がありますが、上板橋-東武練馬(現在の東上線の駅とは異なり、練馬区錦町付近を想定)-田柄-光が丘間の「東武光が丘線」としてリニューアルされた可能性が考えられます。西新井発光が丘行きの電車が設定され、準急あたりまで運転されたでしょうか。

この路線があれば、光が丘団地の人気はかなり高くなったでしょう。高島平を軽く上回ったでしょうか。その代わり、実際にはかなり広い面積を取っている光が丘公園の大半は団地建設用地に回されたかもしれません。

東十条駅での国電接続も1970年代に実現したかもしれません。乗り換えはありますが、池袋にも上野・東京駅方面にも楽に行けます。

一方で地下鉄大江戸線の計画は実現しなかったかもしれません。
1990年代以降は、新宿方面への交通が不便という欠点が顕著になったと思われます。

☆「健康住宅地」は実現したか

最後に、常盤台住宅地についてふれなければこのお話は終われません。西板線が完成していたら、当然あの場所は車両基地になっていて、住宅分譲は行われません。天祖神社の常磐(常盤)松にちなむという「常盤台」の地名も生まれなかったでしょう。では、西板線ができていたら「健康住宅地」は実現せず、板橋区は工業のみの殺風景な区になったのでしょうか。

常盤台住宅地は根津嘉一郎が「田園都市」の理想に基づき、西洋風を取り入れて、上下水道完備で清潔感のある中産階級向けの新しい住宅地を都市近郊に作りたいという志により造成されました。根津は沿線の他の地域を探すように指示したでしょうか。

板橋区内で常盤台に代わり得る地域をあげるならば上板橋駅北西部、東武練馬駅との間に広がる高台(若木・西台南部)あたりでしょう。現在の環八若木トンネル付近です。

元の地主からまとめて土地を買い上げられるかどうかは何ともいえませんが、現実の東武練馬駅よりも上板橋にやや近い位置に新駅を設置して、その周辺に住宅地を造成することは不可能ではないと見込まれます。この地域は工業化の波を受けず、戦後まもない時期から宅地化が始まり、旧式の団地も建てられています。「西台・徳丸台地」が官民一体の”健康住宅地”になった可能性はゼロではないと見込んでいます。根津がどのような経営判断を行うかはわかりませんが。

桜川の都立城北公園地区も住宅地向きの環境ですが、駅から離れて川越街道を渡る立地では、戦前の開発は難しかったものとみられます。
 
もうひとつ可能性を探るとすれば、東武は戦後、上板橋電車庫を鹿浜に移転させたかもしれません。前述した通り、戦後から高度成長期にかけて旅客輸送中心にシフトしていく時代を迎えると、西板線の乗客の流れは鹿浜駅を分水嶺にする形となっていた予想されるためです

鹿浜駅は早い段階で少なくとも24線となり、電車の引き上げ留置線も置かれていたと想像されます。その近くに広い土地があれば、電車の編成が長くなり、次第に手狭になってきた上板橋から移すこともありえたでしょう。車庫が移転したら上板橋町の跡地を使い、遅ればせながら住宅地造成を始めると推定されますが、入口は前野原→前野町駅で、北から入る形となります。

クルドサック、フットパス、プラタナスプロムナードのような独特の構造物は実現しない公算が高いとみられますが、高度成長が本格化する前(19501951年、昭和2526年の”特需景気”の頃)ならば、公団住宅タイプの街よりもいくらか余裕のある空間ができた可能性はありえます。しかし、上板橋で乗り換えないと池袋にたどり着けませんから、どれほど人気が出たかは未知数です。東上本線の中板橋駅を石神井川の上、環七との交差地点付近まで動かすという力技も、戦後発展した中板橋商店街からの反対で頓挫することでしょう。 

現実の東武は戦後も埼玉県内で伊勢崎線と東上線を連絡する路線を幾度か計画していたようですが、西板線よりもさらに条件が悪くなり、ひとつも実現できませんでした。現在では秩父鉄道を介して、車両検査のための回送運転を行っている模様です。

「東武西板線」を検索すると、エイプリルフールのネタとして使われていたことが判明しました。今から上板橋-西新井間で作るという内容です。

そのルートは大正時代の計画とは異なり、小豆沢・赤羽経由です。
すなわち環八の下を通る地下鉄道で、実際に”エイトライナー”建設協議会もできている模様です。さすがに東武の経営は想定していないようですが。

常盤台住宅地ができて、池袋の力が強くなった現代では池袋方面から直通できるように分岐して、環八の路線計画とつなげなければ意味をなさないでしょう。大正時代の計画では、東武の池袋から日光方面への直通列車も運転できません。
それだけ時代が変わったということです。


2018年7月8月追記>

本稿は「常盤台住宅地物語」「東武鉄道六十五年史」「東武鉄道百年史」の記述を参考として、一部書き直した上、事実誤認の修正を行いました。