2016年11月17日木曜日

志村線定説を検証する(2)18系統は区間短縮された? 原因究明編

続いて「18系統1967年(昭和42年)831日最終運転説」はどこから発生したか、なぜ拡散したかについて検証いたします。

まず事実から。
私が調べた範囲内で、この説が最初に掲載された資料は

書籍「都電春秋」

です。同書には18番・41番とも昭和42831日最終運転日で全区間廃止とする表が掲載されています。(短縮とは記されていません。)

次は高松吉太郎さんが1977年(昭和52年)にプレス・アイゼンバーンから出版した

「東京の電車道」。

最終運転日に巣鴨車庫で撮影した2枚の写真(41系統装飾電車と18系統)に「昭和421967」と記してあります。この本には他のページにも「昭和271950」と記した写真説明があり、明らかに誤植です。

続いて、林順信さんが“雪廼舎閑人”(ゆきのやかんじん)名で1982年(昭和57年)に上梓した「都電百景百話」(大正出版)

最初の本には18系統について「昭和41529日廃止」と記しています。
ところが続編のほうで「昭和42831日説」が登場します。この本では廃止日と最終運転日を取り違えていました。

林さんの著書でも1983年(昭和58年)発行の「都電の消えた街 山手編」(大正出版)では昭和41528日最終運転と記しています。平成に入り、1996年発行の「都電が走った街今昔」(JTB)でも同様です。1998年発行の「都電が走った街今昔Ⅱ」(JTB)では裏見開きに19676月版の「電車案内図」から起こしたと推定される路線図が掲載されていて、18系統は既に外されています。

一方、1983年(「都電の消えた街 山手編」よりも後)に小学館から発行された「東京・市電と街並み」および1986年(昭和61年)に保育社から発行された「おもいでの都電」では「41系統 昭和41528日廃止、18系統 昭和42831日廃止」と記されています。「おもいでの都電」では、上記の19676月版「電車案内図」(原図縮小)掲載されています。18系統が外されている一次資料が確認できます。

さらに、2001年発行の「都電系統案内 ありし日の全41系統」(ネコ・パブリッシング)で区間短縮説が登場しました。以後、21世紀に入ってから発行された都電本ではほとんどがこの説を採りいれています。


以下は私の推理です。あくまでも、残されている資料から「このように考えれば最も矛盾がない」というお話であることをお断りいたします。万一事実誤認があったり、関係の皆さまに失礼があったりする場合はお許しください。

既に存在していない出版社のため実名を記しますが、伸光社の「都電春秋」出版担当編集者さんの校正ミスおよびプレスアイゼンバーン社の原稿誤植が源とみられます。

林さんが最初の「都電百景百話」で、志村線が昭和415になくなったのだから当然18系統も同時に廃止されたと考えてそのように記したところ、「都電春秋」や「東京の電車道」を読んでいた人から出版社に指摘があったのでしょう。

林さんは、志村線最終運転について報道した新聞記事をお持ちだったと思われます。指摘を聞いて、41系統については明らかに「都電春秋」が誤っているが、18系統は自分が都電の写真を撮るようになる前だから自信が持てないとして、続編では1967831日説に“修正”したのでしょう。スクラップのメモに記していた新聞の日付(昭和41529日)を最終運転日と勘違いなされたとも推定できます。この時点で林さんは、志村線の廃止は地下鉄建設のための軌道撤去が最大の目的であったことをご存じなかったか、もしくは失念されていたと思われます。すぐにそのことに思い至り、「都電の消えた街 山手編」では再修正されたのでしょう。

ところが「東京・市電と街並み」で、なぜか1967年説がよみがえってしまいました。林さんは35系統のみになった後の1967年(昭和42年)に巣鴨車庫、巣鴨駅、小石川、白山、神保町などで都電写真を撮影して、著書で発表しているのですが、ネガの数が多すぎて検証しきれなかったものと考えられます。

本郷生まれ、文京区在住と著書で明記している林さんにとって、35系統の沿線は「準地元」のはずですが、それでもなお白山通りで自分の撮った写真には35番しか写っていないという事実を見逃しておいででした。

「東京・市電と街並み」に掲載されている系統廃止表には各年度別の廃止・短縮路線数集計も記されていますから、昭和42年度の数字が矛盾していることはわかりそうなものですが、あいにく編集担当者さんまで見逃してしまったと思われます。同書では参考文献の項目に「都電春秋」があげられています。
「おもいでの都電」にも、同じ表が引用されています。

「都電が走った街今昔」シリーズでは、林さんかJTBの担当者さんのいずれかが東京都公報にあたって最終的に確認した可能性もあります。

この間に出版された交通局公式資料を確認してみると、「わが街わが都電」では系統別の最終運転日には言及されていませんが、翌1992年の「交通局80年史」143ページ掲載の志村線廃止の項目で、

「並行する18系統も同日に廃止されている。」

と、括弧つきでわざわざ注釈を入れています。
都電好きの人や、かつての東京の街並みに関心を持つ人が幾人か、野尻さんや林さんの本を読んで交通局の広報担当部署に問い合わせするようになってきた流れを反映させたものと考えられます。



 
21世紀を迎えた現代において1967年説が広まった直接の原因は、やはり「都電系統案内」でしょう。この本の著者が「18系統短縮説」を初めて提唱して、それに沿ったストーリーまで拵えました。野尻さん、高松さん、林さんなど先達の書籍であいまいにされている箇所に色を添えようとも思い立ったのでしょうか。

同書の出版に際して、著者は「東京都公報」も「交通局80年史」も参照する手間を惜しみ、出版社の人も先達の本にそう書いてあるからという理由でそのまま通してしまったものとみられます。

この鉄道書籍シリーズは人気があるようで、資料的評価も高く、現在でも鉄道書籍取扱い書店ではバックナンバーが多数取り揃えられています。同書の他の系統に関する記述が正確であるため「バイブル」となり、さらにインターネットが普及する時代を迎え、コピーペーストで急速に拡散していったと推理いたします。

荻原二郎さんの生涯の集大成でもある「都電が走った昭和の東京」を担当した編集者さんも、この説の拡散からは逃れられませんでした。「都営交通100周年都電写真集」114ページでも解説担当者がそのストーリーを開陳していますが、交通局の編集担当者さんがさすがにおかしいと気づいたのでしょう、ページ上部で「廃止日 昭和411966529日 三田線工事のため年次計画前に撤去」と記していて、ねじれた構造のページになっています。解説文の脱稿後に東京都公報を参照した可能性もあります。

「都電系統案内」の著者は、既にこのブログで幾度も実名を記した鉄道写真の第一人者で、現在もご活躍中です。その方の著作物について批判的指摘を行うことは、極めて残念と申し上げざるを得ません。しかし、都電志村線の歴史をこれ以上捻じ曲げさせないためには、地元に暮らしている都電ファンが声をあげなければ始まりません。板橋区の名誉にもかかわることですが、区は都電にほとんど関心を寄せていないのですから。

この件により、以下の教訓が与えられたと考えます。

1たとえ名前の知られた人の著作であってもそのまま鵜呑みにせず、自分の目と手足を使って資料にあたり、自分の頭で考察する姿勢を崩さないこと。

2人にはそれぞれ得意分野があり、優れた写真を撮影する人が正確な記録の編纂にも優れているとは限らないという現実を直視すること。

3ある対象について一度レッテルを張って、その先の思考が停止される状態に陥らないように心がけること。

また、廃止当時の交通局の対応も後年の誤解を招く一因となりました。志村線の廃止には根強い反対があり、方針が伝わると廃止撤回の請願が関係機関に5件提出されて、運輸省認可時点でも1件審議中と記録されています。それに配慮する意味合いもあったためか、最終日の装飾電車は41系統についてのみ運転して、18系統としては走らせませんでした。

廃止告知の立看板も「都電巣鴨志村線ご利用の皆様へ」として、具体的な系統番号にはふれませんでした。(後年の撤去計画実行の際には立看板に系統番号を明記しています。)
さらに、廃止直前の乗客数調査データなど公式資料でも18系統のみを外していたため、年月が経過するとあいまいになってしまったものと推定されます。

他の記事でも話題としましたが、この問題の源は野尻さんの

「東京の満州」

という志村の形容に尽きると、検証を終えて強く感じています。たとえ無意識のうちであっても、志村を他の地域より一段低く見ていて、都電が志村橋まで敷かれているから仕方なく出かけてみたという心の構え方であったからこそ、誤りにお気づきになられなかったのでしょう。

旧宿場町時代も、板橋宿は江戸四宿の中で最も格下とみなされていたと伝えられています。簡単に調べるだけでもそれをおちょくる古川柳などを知ることができます。

「都電春秋」には、歴史の裏表まで知り尽くした人でないと書けないお話も紹介されています。それは著者野尻さんが培ってきた才能の証である一方、無意識のうちに「板橋は格下」という先入観までも培われたとみられます。

旧江戸市街地や江東地区を走る路線の取材に出かけた際のたとえ一割でも、出向いた先の土地に敬意を払う姿勢をお持ちならば、表の誤りも見逃さなかったものと察します。「都電春秋」が出版された時代、公文書はまだ機密扱いだったとは思われますが、都民に向けて発信する情報である東京都公報を閲覧する手段は用意されていたと考えられます。どうせ志村だからと、公式資料を確認する手間を惜しんだ節がみられることが残念でなりません。

林さん、荻原さんは既に亡くなられました。野尻さんについてはわかりませんが、20世紀のうちに出版された書籍について訂正はもはや効かないでしょう。しかし、現在ご活躍なされている方にはこの結果を真摯に受け止めて、現行出版書籍についてしかるべき責任を果たした上で今後の参考としていただければ、それにまさる幸せはございません。

Nature誌では、ナントカ細胞は論文投稿者の実験では証明できないという事実を把握した段階で、撤回の記事を掲載していることをあわせて申し添えます。


…と、書いてはみたものの。
改めて振り返ると、私は板橋区の中では比較的恵まれた環境暮らしてきたといえるでしょう。「板橋」「志村」の名が他所の人にもたらす泥臭さ、油臭さに気づかずに済む境遇だったのかもしれません。

板橋区の本質についてよく知らないがゆえに、むきになってしまうとも見なすことができます。