2016年11月30日水曜日

板橋五丁目2016


☆対外説明用の「接続停留場」

交通局は1944年(昭和19年)7月に都電志村線を開通させた際、それまでの終点下板橋停留場を廃止して、100mほど西寄り(志村方面)に「板橋町五丁目」停留場を開設した。しかし、交通局の文書では最後まで旧下板橋停留場を板橋線と志村線の境界と定義していた。

廃止申請が決まると、「都電志村線 志村橋・旧下板橋間および板橋線 旧下板橋・巣鴨車庫前間」では運輸省の人にも、地元の企業にも利用客にもわからないと考えたのだろう、板橋五丁目停留場を志村線と板橋線の境界として説明している。

板橋五丁目停留場付近はそれなりに都会的な風景のため、都電写真にもよく登場する。最終日装飾電車は荻原二郎さんが撮影したカラー写真の他、区立公文書館でもカラーで見ることができる。埼玉銀行の大きな看板が目印である。
板橋五丁目停留場付近。旧埼玉銀行、現・りそな銀行板橋支店前。
(2016年6月)
「板橋のあゆみ」「昭和30年・40年代の板橋区」には、板橋五丁目停留場で8000形を撮影した夜景写真が掲載されている。当時のフィルム感度ではかなりの長時間露光が必要だったはずで、撮影者さんは停留場の端に三脚を立てて息をのみながら、信号待ちで停車している電車にカメラを向けていたことであろう。
この写真にはクールな8000形が一番似合う。
「板橋のあゆみ」「昭和30年・40年代の板橋区」掲載 
8000形夜景写真撮影地付近。(2016年9月)
☆板橋の鉄道忌避伝説

現在は「りそな銀行」として営業している埼玉銀行板橋支店の裏は旧中山道である。このあたりは「平尾宿」と呼ばれていた。街道筋では京の都に近いほうから上、中、下とする慣わしがあり、上宿・仲宿はそれに従っているが「下宿」はほとんど用いられていなかった。別の意味の言葉でもあるし、川越街道沿いの上板橋宿・下板橋宿のほうが広く知られていたためと考えられる。

「明治時代を迎えても、宿場の往来はにぎわいを見せていて、景気もよかったのですが、明治16年に今の国鉄の前身にあたる会社が鉄道を作り、宿場近くに駅を開く計画が発表されると、板橋宿の有力者から宿場の繁盛が削がれて生計を立てられなくなるから、蒸気機関車の煙で火の粉が飛ぶと危ないからと言われて計画が変更され、板橋駅は宿場から離れたところに置かれました。翌明治17年に板橋宿に大火が起こり、町のほとんどが焼失してしまいました。その後、鉄道はどんどん便利になり、板橋はさらに寂れていきました。」

…と、今でも「板橋自虐史観」を学校で教えているのだろうか。

この種の「鉄度忌避伝説」は明治時代に開通した、古くからの路線沿いにはよくある話である。私が小学生の頃は「スピードの進化」だけに力点が置かれていて、

”新幹線>電車>汽車の順で偉い”

という価値観を思い切り刷り込む教育体制が敷かれていた。何かと動作が遅い、勘の鈍い、器用ではない子供を蔑んだり、小突いたりすることはよくないといくら教師が叫んでも全然言うことを聞かないのは至極当然であろう。加えて、先人たちの先見の明のなさを教えることで「あんたたちは、少しはましな選択ができる人間に育っておくんなさいまし。」と期待をかける目的があったものとみられる。

1884年(明治17年)12月の板橋宿大火は史実であり、江戸時代からの上宿・仲宿の家屋のほとんどが全焼したと伝えられている。翌1885年(明治18年)31日に、日本鉄道品川線の品川-赤羽間が開通して、板橋駅は目黒、渋谷、新宿、目白とともに最初の途中駅として開設された。

しかし、反対運動は教えられた通りだったのだろうか。今から10年ほど前に、各地に残されている鉄道忌避伝説について様々な分野の資料をあたり緻密に検証して、そのほとんどは後世の作り話であると結論づけた書籍が上梓されてこの世界で話題にのぼったが、板橋は果たして…。

「日本鉄道は板橋宿の意向に関係なく、現在のルートと駅の位置を計画して、その通りに工事を進めて完成させた。外部事情を勘案して計画を変更することはなかった。」

と、私は考えている。

当時の鉄道技術では長いトンネルや橋梁の建設ができなかっただけでなく、機関車の性能上勾配やカーブもなるべく抑えルート選定が必須だった。お雇い外国人の指導を離れてまだそう時間が経っていないころである。さらに、品川線の建設目的は北関東の工場で生産された生糸・布製品などを横浜港まで運ぶこと。その貨車をたくさん連結するには勾配が少ないに越したことはない。

日本鉄道はおそらく火事の前からこの地域で着工していただろう。赤羽駅から台地上をまっすぐ南下するが、石神井川を渡る地点で台地から小さな谷地に降りるため、中山道付近はどうしても坂を上り尾根筋を横切らなければならない。測量の結果、最も勾配が小さい丘陵地を選び、切通しを掘って線路を通し、再び谷地形となる谷端川(やばたがわ)近くで中山道と交差させて、そこに駅を置く計画だったと考えられる。

その位置は平尾宿の南端からもさらに離れていて、幕末に近藤勇が斬首されたといういわくつきの土地。日本鉄道は貨物運送を主体に考えていて、馬車業者のテリトリーを侵食するものでもない。地元民は、いきなり赤羽や目白などに連れていかれてもかえって困るという人のほうが大多数だったはずである。

「汽車を作るならばどうぞご勝手に、我々はどうせ使わないから。」

が宿場の本音だったのではないか。加賀藩屋敷跡地にできた軍の火薬製造場のほうがよほど不気味で厄介である。こちらは反対すれば首が飛びかねない。日本鉄道側も、宿場の真ん中を通らないほうが何かと楽に建設できるのならば、それに越したことはないといったところだろう。その状況で大火事が起こったと解釈するほうが妥当とみられる。

1982年(昭和57年)に板橋区で出版された区政50周年記念誌「わが街・いまむかし」によれば、反対運動は日本鉄道による最初の鉄道建設(上野-熊谷間、1882年=明治15年着工)の際に、板橋宿を通るのではないかといううわさがどこからともなく広まってきた際に起こされたという。宿場の総意として反対という姿勢を表明したことは事実だが、詳しい資料は残されていないと記されている。

日本鉄道は1881年(明治14年)に設立され、下谷区上野山下町(現在の台東区上野)に本社を置いた。最初に政府から示された計画は官設鉄道品川駅から分岐して、埼玉県川口宿を経て、上州前橋町に至る経路であったが、それを受けた会社が測量を行ったところ、東京府内において起伏が多い地域を経由するため建設費がかさみ、技術的にも早期開通は困難と結論づけた。会社が上野にあるのだから、まず上野から建設したいと希望して、翌1882年(明治15年)以下の起業申請書を政府に提出、免許が認められた。

「上野公園東辺の地に一停車場を設け、山側に沿うて一線を起し、王子を経て赤羽根(赤羽)に至り、第一部の線(注・会社創立時に政府から示された品川-川口-前橋間の路線)に接続せば、地勢平坦にして人家竹木の障碍も無く、工事極めて容易にて距離亦六哩の外に出でず。」

すなわち日本鉄道は政府案を蹴ってまで、崖線の縁を回り王子経由で建設する方針を示していた。この時点では品川駅で官設鉄道に直結できるかどうか見通しが立っていなかったことも影響したとみられる。板橋宿の人々にも遅からずその事実が伝わり、心配するまでもなかったと胸をなでおろしたであろう。

政府案はおそらく会社の内部資料で、現存していないと考えられるが、たとえば「第一部の線は官設鉄道品川駅を発し、南豊島郡中渋谷村近傍、同内藤新宿近傍、及び北豊島郡板橋宿近傍を経由し、架橋にて埼玉県北足立郡川口町に至り…」といった書き方で、宿場の中心地を通るとまでは具体的に想定していなかった可能性もありうる。それがどこかでリークされて板橋宿関係者に伝わり、他に情報がないため不安になり、とりあえず反対しておこうと考えたと推測する。(注:中渋谷村は1889年=明治22年に渋谷村となった。南豊島郡は1896年=明治29年に東多摩郡と合併して豊多摩郡となった。)

品川線は上記の「第一部の線」に相当する路線であり、上野-赤羽間(王子経由)と品川-赤羽間(新宿経由)で本線と支線を交換する形で計画されたことになる。1883年(明治16年)に上野-熊谷間を開業させた後で工事に取りかかったが、その時点では板橋宿でも「汽車は、坂のあるところには作れない。急に曲げることもできない。」という事情をきちんと理解して、宿場の南のはずれを通すのならば特に問題視するまでもないというスタンスを取れたであろう。

すなわち学校で教わった「板橋自虐史観」は誤りで、「どうぞご勝手に」が史実と、改めて推定される。板橋宿のご先祖様は、鉄道の恩恵が当たり前で生まれ育った後世の人間が想像するよりもはるかに賢かっただろう。そうでなければ250年以上も宿場を維持できない。

板橋宿大火の後、町の中心は南の平尾宿に移ってきた。遊郭などの伝統業者もそこで改めて商売を始める。やがて軍の施設が増えてきて、旅客列車が使いやすくなり、明治の末に電車に変わると平尾宿は軍関係者や日曜寺参拝の藍染業者(愛染講)など新しいお客さんを迎え、倍旧のにぎわいを見せた。それゆえに官公署などの施設も集中してこの地域に建てられているのだろう。市電の最初の終点「下板橋」の位置設定も、その流れに乗るものだったと考えられる。

<追記1>「板橋区史」によれば、上記の板橋宿の動きとは別に、品川線着工直前の1884年(明治17年)に、上板橋宿・下板橋宿・滝野川村・巣鴨村(後の西巣鴨町)の4宿村連名で、日本鉄道に駅設置請願を行った記録が残されているという。こちらについては曲線をつけてまで応じることはできないものの、日本鉄道側の測量の結果からも特に障害とならないため採択して、中山道との交差地点に駅を設置する決定したとみられる。まだ鉄道建設の黎明期であり、日本鉄道の人も駅名が土地に与える影響についてよく理解できていなかったものと思われるが、旧江戸四宿の知名度を取り「板橋駅」としたことは賢明であっただろう。請願宿村いずれの名前を取っても、後でもめかねないからである。その一方、板橋駅と名付けられたことで「板橋宿が鉄道を嫌ったため街はずれにできた」という誤解が生まれたとも考えられる。

<追記2>「日本の特別地域 東京都板橋区」という、ハデハデな表紙の書籍が出版されている。板橋区のトホホぶりをこれでもかと挙げて、いかに目立たない区で、いかに駄目な区で、それでもなお愛すべき区であるかについて力説されていて、楽しく読ませていただいた。長老世代の痛々しいまでの自慢ぶりに日頃食傷気味であるため、このアプローチはあっぱれ、小気味よい。確かに昭和の高度成長期の変貌をリアルタイムで経験していない世代の人にとって、板橋区はあまり面白みがなく、池袋に寄生している区、大宮を埼玉だからと見下していたらいつのまにか負けていた区としか認識できないであろう。

しかし著者さんは「板橋鉄道忌避伝説」に完全に染まっていて、その筋に従って論を展開しているため、交通に関する章に関しては失礼ながら0点に近い。文体から執筆当時おそらく30代の方と推定される。従って著者さんが10代の1980年代末ごろまでは「板橋自虐史観」を学校で教えていたものとみられる。都電志村線に関してはひと言もふれていないため、たぶん授業で省略されていたであろう。今さらながら、教育恐るべしである。

著者さんは「板橋区には鉄道ターミナルがひとつもない」ことにこだわっておいでの様子。その点に価値を置く見方をするならば、先見の明のなさを指摘する先人は明治時代の宿場の人ではなく、東武が西板線建設を計画しても土地を売らなかった大正末期の人たちであろう。

<追記3>板橋区立小学校用社会科副教材として制作された

「わたしたちの板橋 昭和46年版」65ページに、”板橋自虐史観”の種まきとなる記述がみられる。

<引用>

いまから八十年ほど前に、上野から熊谷まで、汽車がはしるようになりました。この汽車は、町の人たちのはんたいで、板橋の町をさけて、赤羽をとおりました。

あくる年、「岩の坂」から出た火事で、板橋宿は、ほとんどやけてしまいました。

○ 町の人たちは、汽車がとおることにどうしてはんたいしたのでしょう。

<引用終了>

● こたえ

汽車のけむりで火事がおきそうだから、自分たちの仕事がうばわれてしまいそうだからとこたえてほしいのでしょうが、そうではないみたいです。汽車を作るぎじゅつがまだたりなくて、赤羽から新宿までまっすぐ通るコースからはずれて、急な坂道をつくらなければいけない板橋の町をとおすことができなかったからです。

<引用>

○ 汽車がとおらなかったり火事でやけたりした町は、どうなったでしょう。

<引用終了>

● こたえ

南のほうの、駅や軍のしせつに近い土地に引っこしていきました。


同じく板橋区教育委員会制作の「板橋 身近な地域を知るために」(1975年)116~117ページには、”板橋自虐史観”が誤字誤植もそのままに、さらに詳しく、堂々と開陳されている。とほほ。


☆下板橋停留場の写真

下板橋停留場にて市電の車両を撮影した写真は今のところ見つかっていないが、2004年に郷土出版社から刊行された大判本「目で見る練馬・板橋の100年」35ページに、電車が来ていない時に撮影された停留場の写真が掲載されている。

停留場の北側には「岩朝食堂」という大きな構えの食堂があり、うな丼、牛丼、カツレツ、定食からお汁粉、アイスクリームに至るまでメニューを大書したたれ幕を表通りに面していくつも掲げている様子が記録されている。入口にはヱビスビールの看板が取り付けられている。写真手前には安全地帯、右端の電柱に「下板橋」の停留場標が掲げられている。戦後の弘亜社製琺瑯看板よりも小型で、名鉄岐阜市内線で使用されていた停留場標に類似した形状である。しかし電柱の上部には、戦後とは配色が異なると推定されるものの、都電写真でおなじみの長方形板状の停留場標が既に据え付けられていることが確認できる。



☆停留場データ

開設日:1945年ごろ
設置場所:<巣鴨方面>板橋区板橋町五丁目899付近(現・板橋区板橋三丁目1付近)
<志村橋方面>板橋区板橋町二丁目26付近(現・板橋区板橋二丁目42付近)
<旧下板橋停留場>板橋区板橋町六丁目757付近(現・板橋区板橋四丁目12付近)
志村橋からの距離:営業キロ5.3、実測キロ5.327
停留場形式:不明(安全地帯が設置されていなかった可能性あり)
停留場標:不明

☆本停留場付近で撮影された写真が見られるメディア

(1) 板橋区立公文書館ホームページ
41系統志村橋行き6100 最終日装飾車ほか1両 埼玉銀行板橋支店前
カラー撮影

(2) 書籍「続・都電百景百話」(大正出版、1982年)59ページ
41系統巣鴨行き6100 最終日装飾車、18系統神田橋行き6105 撮影:諸河久

(3) 図録「トラムとメトロ」8ページ
41系統志村橋行き6100 最終日装飾車 撮影:荻原二郎 最終日 カラー撮影

(4) 書籍「よみがえる東京 都電が走った昭和の街角」103ページ
18系統巣鴨行き7053 撮影:荻原二郎 最終日
※説明文に誤記あり

(5) 書籍「昭和30年・40年代の板橋区」49ページ
41系統志村橋行き6100 最終日装飾車ほか1

(6) 書籍「板橋のあゆみ」(板橋区、1969年)825ページ
書籍「昭和30年・40年代の板橋区」49ページ
18系統行先不明8093 埼玉銀行板橋支店前夜景
※以上2枚は同一写真

(7) 個人ホームページ 41系統巣鴨行き6134 19665

(8) 個人ホームページ 41系統志村橋行き 19665

(9) 個人ホームページ 41系統志村橋行き6100 最終日装飾車
※説明文に誤記あり(巣鴨車庫前付近と記載)


☆下板橋停留場付近で撮影された写真が見られるメディア

(1) 書籍「目で見る練馬・板橋の100年」36ページ
車両なし 岩朝食堂前