2016年10月18日火曜日

城北交通公園に都電志村線記念資料室の開設を


「ぽこぺん談話室」のログを拝読していると、「都電博物館を作ってほしい」という要望をしばしば見かけます。

そのお気持ちは十分に伝わってきますが、現状では残念ながら、かつての都電好きの人が満足できて、なおかつ一般の人にも荒川線以外の東京の公営路面電車の良さが伝わる施設を開くことは相当困難と考えざるを得ません。

各種報道でご承知の通り、昨今の東京都は様々な課題に直面していて、財政面でも厳しい見方が少なくありません。現状では、日頃の暮らしに直接関わる事柄でなければ、予算を組んでほしいとはとてもいえないふんいきです。

東京市電気局発足100周年にあたる2011年夏に「東京の交通100年博」というイベントが開催されたと伺いました。私はあいにく足を運んでいませんが、出かけた方々のお話によると荒川車庫で保存している6086の実物公開や、1から41までのツボ型系統板40枚(前述した通り26はツボ型採用時に既に廃止されていたため、もともと製作されていません)全種一堂展示など、かなりのサービスぶりだったといいます。

しかし一方で、

「かつての都電について、これ以上の常設展示をするつもりはありません。
それよりも荒川線に乗ってください。」

という交通局の強い意思表示の場であったとも解釈できます。おそらく荒川車庫脇の「都電おもいで広場」止まりにする心積もりなのでしょう。一方都電ファンにしてみたら、荒川線はあくまでも「傍流」であり、様々な経緯が重なっていつのまにか都電の代表になってしまったという感覚です。そこに齟齬がみられます。

仮に都電博物館計画が承認されても、交通局主導では荒川線沿線に建てられて、荒川線の沿革と宣伝に大半を割かれてしまうでしょう。ついで銀座、日本橋、浅草、渋谷などの有名どころ、竪川専用橋や喰違見附トンネルなど珍しい構造物の写真を紹介して、系統板や停留場標の琺瑯板をおまけのように飾り、おざなりのような車両形式解説や車庫概要を載せて、最後は「鉄道ピクトリアル」誌に掲載された配線図を誤りもそのままに掲示しておしまい、が関の山であろうと容易に想像できます。

杉並線14系統に関しては荻原さんのカラー写真がたくさん展示されるかもしれませんが、志村線など、蔑視的でも展示対象になればまだましなほうで、「なかったこと」にされるか、三田線の下僕であったかのような表現で23行の説明に留まってしまうであろうことは、本ブログでの検証結果を見れば明らかでしょう。19678月廃止説の“亡霊”が出ないとも限りません。足利直義を描いた肖像画が長い間「源頼朝」と伝えられてきた歴史が繰り返される懸念は相当高いと見積もっています。

都電に関する展示を行う博物館は、あれもこれも欲張る総花的なものではなく、荒川線沿線からはあえて離して、各系統が通っていた地域ごとに開くほうが、はるかに充実した内容にできると思います。とりわけ志村線は路線単独の博物館形式として板橋区内に開設する形にしないと、決して浮かばれないでしょう。しかしそれも、地域の自治体の熱意と歴史に対する敬意あってこそ可能です。板橋区はその点、どうも心許ないとみなさざるを得ません。

区立図書館に行くと、古代の遺跡発掘調査報告書が山ほどあります。この分野には熱心に取り組んでいる様子です。区民の親睦も兼ねた文芸誌形式の「板橋史談」という書籍もバックナンバーがたくさんあり、中世や江戸時代の歴史を中心にいろいろな方がエッセイ形式で寄稿されています。しかしいずれも今の暮らしとはほど遠い世界を扱っていて、その分野がお好きな人には価値のある資料でしょうが、失礼ながら私にはあいにく訴えかけるものが感じられません。

「板橋区史」も割合最近の出版でありながら、必要な部分を読んだだけでもすぐに誤記につきあたり、“区史にがっくし”という目に遭います。板橋区の大和町と埼玉県の大和町(和光市)を取り違えていて、地下鉄の計画で東武が大和町(和光市)から上板橋まで建設することになったがその後取りやめられたなど、少し考えてみればおかしいとわかりそうなものです。

この書籍ができた時は副都心線やTJライナーはまだありませんが、これでもかとばかりに埼玉県民御用達優等列車を自線に押し込んできて「中板橋通過待ち」を増やし、ときわ台駅近辺の踏切を「開かず」化させて板橋区民の生活を圧迫し続ける会社が、交通局のためにわざわざ既存線に平行して板橋区内に新線を建設する意図など持ち合わせるはずがありません。板橋区は一事が万事この調子です。

板橋区公文書館ホームページの都電の項目も、ご覧の通り、あまりいい仕事していませんね。志村橋延長にもふれていませんし、板橋十丁目が後の板橋本町、今の上宿バス停に相当すると説明しなければ、若い区民には見当がつきません。虎の子のはずの地下鉄建設に関する記述も正しくありません。

板橋区内の地下鉄建設計画は1957年(昭和32年)の「東京都市計画高速道網」に始まり、1960年(昭和35年)ごろから本格的な検討が行われていますが、この時点では「下板橋」が終点で、その先は引き続き都電でまかなうという内容です。中山道沿いに志村まで地下鉄を延長して都電の代替にするという計画は1962年(昭和37年)の都市交通審議会答申で初めて盛り込まれたという史実が伝わってきません。おまけに地下鉄の開通日まで間違えるという念の入りようです。

板橋史談会は都電の現役時代(1964年=昭和39年)から活動しているサークルのようで、もちろん世代交替はあったでしょうが、“都電など歴史のうちに入らない”という認識の方が今なおほとんどを占めていると思われます。

全く「トホホな区」で情けなくなって参りますが、それでも可能性を探るとすれば、坂下二丁目の「城北交通公園」の一角に「都電志村線記念資料室」を作る方法しか考えられません。城北交通公園は板橋区の施設で、私が小学生の頃に開設されました。今でも立地条件の割には人気があるようで、若い家族連れの姿など見かけますし、行ってきましたという記事を載せている、結構遠方にお住まいの方のブログもいくつかあります。

しかし私は、この施設の展示内容に対して子供の頃から強い違和感を抱き続けています。もちろん、都電志村線に関する展示が実質的に全くなく、ひと言も触れられていないからです。

屋外展示のメインは羽越本線などで使われていたという立派な蒸気機関車。傷みが目立ってきたものの何とか見せられる状態で、それなりのレベルの手間をかけていることが認められます。他にかつて東武の某駅前に展示されていたという小型の蒸気機関車、王78系統 大和町行きの幕を表示させた旧型の都営バスというラインアップです。

屋内展示も蒸気機関車中心で、19601970年代に各地で撮影された写真や機関車の銘板が数多く飾られています。年表は新幹線開業テープカットの有名な写真などを目立つ場所に配して、今でもスピードアップだけが鉄道の全てであるような、悪い意味での「昭和的史観」が匂い立ちます。

その中で1932年(昭和7年)に省線京浜間電車が東北本線にも延長されて京浜東北線になった当時の赤羽駅ホームの写真だけは、1998年に全面高架化が完成するまで基本構造が同じだったことから私にもたちどころに見当がつきますこの地域からバスで赤羽に出て国電に乗り換える通勤ルートを用いていた人は、うちの父親(19501960年代に利用)をはじめ少なくないでしょうからそれなりに意味がありますが、ほとんどは板橋区に直接縁のないものの展示です。

城北交通公園ができた時代はいわゆる「SLブーム」の最中でした。流行りのものにすぐに飛びつくという、板橋区の悪い癖のひとつが如実に表れている施設と受け止めています。

足元の交通機関をないがしろにする姿勢だからこそ、後年出鱈目な解説が各所にはびこる状況を招いたとも言えるでしょう。蒸気機関車の展示は、国鉄の機関区があった土地か、それこそ大宮の鉄道博物館に任せればよいのではありませんか。できたら東北地方にも鉄道博物館の分室があればよいと思います。板橋区は自らの足元をしっかり見て、板橋区の交通の歴史を中心にする展示内容に専心しなければ、五街道のひとつという歴史が泣き出してしまいます。

足元といえば、正確には文字通り展示室の足元に都電の遺構が少しあります。8000形の車輪と車軸だけがひっそりと飾られています。しかしそこにも、かつてこの近くまで都電の軌道があったという説明は全くありません。その筋が好きな方は車輪だけでもピンと来るでしょうが、一般の人にはほとんど意味をなしません。

蒸気機関車に高いお金を出すくらいならば、柳島営業所がなくなる数か月前に8000形の1両でも“予約”しておこう、そのほうが板橋区にも身近なものだからと気づく才覚を持ち合わせていた職員は当時誰もいなかったのでしょうか。巣鴨営業所廃止の際に「41」のアクリル板の1枚でも譲ってもらうか、あるいはその時点で地下鉄に気を取られて思いつけなければ、城北交通公園を開く際に錦糸町の江東デパートまで買い付けに行くぐらいの行動力がなくて、板橋区の施設と胸を張れるでしょうか。
もっとも、志村線の備品は江東デパートに行く前に廃棄されていたかもしれません。

「ようやく板橋区にも地下鉄ができてスピードアップの恩恵を受けられるようになった。しかしそれは都電の歴史の上に実現できたもの。今でこそ工業地帯でも、このままでは空気も水も悪くなりすぎて区民が暮らせなくなりかねない。そう遠くない将来に、板橋区でも環境重視の姿勢に舵を切る時が来るだろうし、厄介者扱いだった都電が見直される機会もないとはいえない。今ではそのようなことを話しても鼻であしらわれるだろうが。せっかく城北交通公園に予算がつくのだから、地下鉄に早く来てもらった代わりに犠牲になった都電志村線の板橋区への貢献をねぎらっておこう。」

という先見の明を持った職員が誰一人現れなかったことに、板橋区という地域の限界が見て取れます。

これ以上過ぎたことをあれこれあげつらっても、「板橋区のトホホぶり」をあぶりだす以上の意味は持ち得ません。もし、今から「都電志村線資料室」を作るならばどのような内容がふさわしいかについて考えていきましょう。

今となっては、実際の都電車両の展示は不要です。もう荒川線の車両しかありませんし、無理に持ってきても某停留場跡の展示のように歴史を歪曲しかねません。それに板橋区は既に荒川線から7508を譲り受けていて、大山の交通公園で展示していますから、それで十分です。もちろん大山から動かす必要もありません。

その代わり、「長後町一丁目停留場」を細部まで作り込んで再現してほしいです。
「江戸東京たてもの園」の南佐久間町停留場再現がお手本になるでしょう。

なぜ志村橋にしないかというと、
・城北交通公園の最も近くにあった電停は長後町一丁目であること
・終点よりも途中停留場のほうがより当時の日常風景に近い印象を与えること
・板橋区の住居表示・地番整理で完全に消えた町名は「長後」のみであること
3点が理由です。

都営交通100周年都電写真集137ページ掲載の、諸河さんの写真を小さいですが参考にして、安全地帯のコンクリート構造を土台に、ペパーミントグリーンの時計つき電飾停留場標を設置。もちろん時計も実際に動くように装備させます。

安全地帯の脇には軌道のレールと敷石を再現。中山道の1車線分間隔を置いて、赤銅色の“電柱”を立てて、琺瑯製と赤い板の停留場標を現役当時と同じようにとりつけます。コレクターの方から、下部の電車案内・広告板まで含めてサンプルをお借りできればよいのですが。今でも弘亜社で作ってもらえるのでしょうか。職人さんがもういないかもしれません。丸善石油やコビトの広告も再現したいところですが、既に存在していないコビトはともかく、現役企業である丸善石油の広告は難しいところでしょうか。

電柱は停留場の四方に立てて、志村線の特徴でもあるシンプルカテナリーの架線を軌道の上に張ります。もちろん通電はしませんが、むやみに登られないよう、ドローン対策もあわせて注意喚起は必要です。

ここまで作り込めば、電車がないだけにかえってリアリティーを出せるでしょう。フィルムコミッションのように、映画やドラマなどの撮影に使ってもらうのもよろしいかもしれません。

たとえば昭和のある日、小雨に濡れた都電停留場で、飲んだくれの亭主や嫌がらせすることにしか楽しみを見出せない義母にほとほと愛想を尽かせて、幼い子の手をひきつつ、電車に乗って家に帰ろうか迷いつつたたずむ、大きなお腹を抱えている人の、雨粒にまぶたを伏せる細やかな表情といった絵などを撮ることが可能となるでしょう。撮影の際には「長後町一丁目」を作品上の架空の停留場名に変えることもできます。ただし、あの場所の背後は確か野球場のはずで、背景処理を工夫してもらう必要はありますが。

この案を実現しようとすると想像以上にスペースが必要になるはずで、今の敷地では満足のいかない内容になりかねません。メイン展示の蒸気機関車は今さら外せないでしょうから、都営バスの車両を現在王78系統を担当している杉並車庫に返却して、その跡地を利用すれば…と考えましたが、現地を見たところそれだけでは不十分そうです。

いっそのこと、かなり老朽化している今の屋内展示室を取り壊し、蒸気機関車の上に2階・3階が乗るような建物を作り、現在の建物とバス展示の跡地を都電停留場復元に用いてみてはいかがでしょう。現在でも展示スペースには柵が設けられていて、不逞の輩の侵入を防げるようになっています。

新展示館は2階が入口で、従来の蒸気機関車銘板や省線赤羽駅の写真などを展示します。3階に上がってもらうと、そこは都電志村線の空間。赤塚の郷土資料館で保管しているという41系統のサボを持ってくるのみならず、「41」の系統板を何とか調達してきてほしいです。現物が既になければ、コレクターの方から「13」や「24」をフォントやカラーのサンプルとして借りてきて新たに作ります。近年何かと話題の週刊文春の広告を入れられればなお結構ですが。

室内には6000形の黄緑色フェルトや、8000形の菱型イボイボつき濃緑色レザー製のシートを再現した長椅子を用意。
都電車両標準装備だった黄緑色フェルトシート。
「都電おもいで広場」展示7504のもの。
(2016年9月)
ただしこの車両の現役走行当時は臙脂色
のシートだったという。(ぽこぺん談話室情報より)
壁には板橋区志村・板橋地区~豊島区巣鴨近辺の地図パネルを張り、路線と停留場の正確な位置を記して、撮影者や関係者の許諾が取れる限り当時の写真を停留場順に載せて、同じ場所の現在の写真を対比させます。

私は今なおフィーチャーフォン(いわゆる“ガラケー”)派で、スマホには無縁ですが、新旧写真や地図をその場でダウンロードできるアプリを有料でサービスする手もあります。巣鴨営業所制作の183541系統案内図のコピーもあればなお結構でしょう。

志村線や中山道都内区間の詳しく正しい歴史を記したミニブックを作り、既存の都電本とともに閲覧できるようにします。わざわざ3階にするのは、本当に都電が好きな人に上がってきてもらいたい、あの乗降ステップを体験してもらいたいという意味があります。当時の発車ベル、走行音や、窓ガラスがガタガタ言う感触も再現できたらよいのですが、録音までしていた人はまずいないでしょうね。「五感で味わう資料室」ができたら、荒川線の「都電おもいで広場」にもひけを取らない施設になれると思います。

万一予算がつく暁には、私が所有している都電関連書籍を区に寄贈しても…とは思いますが、そこは板橋区ですから(以下省略)。現地の案内板は「城北(交通)公園」と括弧がつけられていて、そのようなことに税金を使うなという無言の圧力も感じ取られる状態ですから、万がひとつにもありえないと申し上げて差し支えないでしょう。停留場の再現どころか、交通に関する展示自体をもう取りやめて全部スポーツ施設にしたいという方針が立てられてしまう恐れさえあります。

ともかくも板橋区には、もう少し“税金の納めがいがある自治体”になっていただきたいものです。