2016年11月20日日曜日

コビト前、富士見病院、丸善石油 -停留場標について-

もし、現在私が持っているデジタル一眼レフカメラで5060年前の都電志村線の姿を撮ることができるのならば、の場所でこう狙ってみたいというポイントがいくつかあります。それに加えて、全停留場の様子とそこに掲示されている停留場標を記録しておきたいです。

停留場や駅の表示類そのものが好きということもありますが、都電の場合はどのようなところをどんな感じで運転していたかを記録するための大切な資料になったはずと考えています。本ブログの50年後停留場記事で国際興業バスや都営バスの停留場標を掲載した理由でもあります。

しかし、都電の多くの系統が現役で運行されていた時代はフィルムそのものが貴重だったため、プロ・アマチュア問わずなかなか停留場標まで注意が回らなかったのでしょう。電車が来ていない停留場に対してシャッターを押す人はほとんどいなかったと思われます。従ってマイナーな停留場では、電車の隅に隠れているような姿を注意して観察することになります。

それでも、残された写真から当時の表示方針を大まかながら把握することができます。主要停留場ではカラー写真も多いため、色合いも伝わってきます。

都電の停留場標には、安全地帯の端に設置するものと付近の歩道の電柱に設置するものがありました。安全地帯が設置されていない停留場も少なくありませんでしたから、電柱設置用は電車の停止位置を示す役割も果たしていたと考えられます。

安全地帯用は以下の3種類が確認されています。

1)石灯籠型:最も古くから使われていたタイプで、細長い四角柱の少なくとも1面(外向き)に赤色地、明朝体白文字縦書きで停留場名を記す。他の面は広告や系統案内図などを適宜掲載する。上部には夜間照明用の電球を取り付ける石灯籠型のスペースがある。

2)標識併用型:進駐軍占領時代にデザインされたとみられるタイプ。外向きに英文つきの安全地帯交通標識を配して、その下に横書きで停留場名を記す。内側は広告スペースとして用いる。上部には電灯の笠が2個取り付けられていて、各面を照らすことができる。後年交通標識が取り外されて、代わりに停留場名称を縦書きで大書した板を取り付けた例や、短冊状の板に取り替えた事例も認められる。

3)時計つき電飾型:撤去計画着手時点で最もポピュラーだったタイプ。現在のバス停留所標「しらゆり型」に類似した形状で、ペパーミントグリーンの四角柱の上部に時計を取り付け、先端が丸くなっている。石灯籠型と同じく、外向きに赤色地、白文字明朝体縦書きで停留場名称を記して、残りの面には広告や系統案内図などを適宜掲載する。停留場名称・広告・時計文字板ともアクリル製で、中に蛍光灯が取り付けられていて内側から照らすことができる。

志村線については各停留場の記事でも記した通り、(1)は志村橋、(2)は志村坂上、板橋区役所前、(3)は長後町一丁目、大和町、板橋本町、巣鴨車庫前などに設置されていました。しかし廃止が決まると、最終日以前に先行撤去された節が写真からうかがえます。それゆえに後年、事実とは全く異なる停留場名が撮影地として紹介される事例も現れました。

安全地帯用停留場標の広告は目立つため、沿線の企業や医療機関の名前がよく見られます。志村橋の項でふれた大日本インキ、長後町一丁目の項でふれたコビト、大和町・板橋本町の項でふれた富士見病院などは、まさに板橋区の路線ならではの広告でした。

その一方で、車道の真ん中付近にあるため自動車が衝突して破損することも少なくなかった模様です。志村線の停留場標が被害にあった事例の記録は今のところ見つかっていませんが、他の路線ではコンクリート製の土台が一部崩たままで放置していたり、壊された停留場標を撤去して、代わりにドラム缶を固定してその上に停留場名を記した短冊状の板を取り付けていたりなどの様子が、写真や映像の片隅に写っていることもあります。

電柱用の停留場標は、都電全盛期の街の風景を構成する要素のひとつとしても過言ではありません。それほど「すぐそこにある」ものでした。

電柱の一番上には、赤色地に明朝体白文字縦書きで停留場名を記した長方形の板が歩道と垂直に取り付けられています。下部には小さいながらも広告スペースがあります。電柱用には副名称が記される場合も少なくありませんでした。志村線では前述した通り、富士見通、愛染通、御代ノ台の3例で、うち2例は改称前の旧名でしたが、都心方面では古くからの名所旧跡や近隣の公共施設名を副名称とする事例がかなり見られた模様です。そこまで配慮するのならば、池之端七軒町や黒門町、旅籠町なども副名称で残しておけばよかったではないですか。もっとも、富士見通や御代ノ台は自治体の正式な町名ではなかったからこそ残せたのかもしれません。黒門町などは正式町名だったがゆえに、かえって完全に消されたとも考えられます。

先般久しぶりに都営バスの上58系統に乗車したところ、本駒込四丁目に「神明町」の副名称がひっそりと記されていることに気づきました。2011年ごろにはなかったはずです。この路線でも「根津一丁目」を地下鉄に合わせて「根津駅前」にしてしまうなど頭を抱えざるを得ない改称が近年行われていますが、旧正式町名を副名称にするあたりに、せめてもの良心が感じられました。ただし車内放送の案内はなく、地元珠算塾の車内広告放送が神明町の名前を今に伝えています。

その下に琺瑯製の大きな停留場標が取り付けられていました。弘亜社という企業が作っていたそうで、かつては東京のみならず全国主要都市の路面電車停留場標の製作を請け負っていたといいます。私事ですが1983年(昭和58年)に初めて広島を訪れた際、広島電鉄の稲荷町や銀山町(かなやまちょう)などにこのタイプの停留場標が残されていることに気がつきました。稲荷町は東京にも同名の停留場があったため、ひときわ感慨深いものがありました。後年出版された書籍「神戸市電が走った街今昔」でも、このタイプの停留場標を模したデザインを見出しに載せていることから、やはり東京と同じタイプが使われていたと推定されます。実物を見てみたかったですね。ただし神戸市電の安全地帯には、一般鉄道の駅名標タイプが設置されていた模様です。

琺瑯製停留場標は白地で、原則濃紺の文字が使われていました。濃紺は営団地下鉄でも採用されていて、国鉄・私鉄の黒と区別する意味合いがあったようにも思えます。地下鉄6号線にも濃紺文字のサインは受け継がれていて、最近まで新高島平駅で見ることができました。ただし「都電の100年 Since1911」に登場した都電備品コレクターさんの所有品写真から、一部では黒い文字停留場標もあったことが確認できます。

電柱の四面全てを取り囲むように取り付けられていましたが、車道に向けた面には両隅に隣の停留場名が小さく記されていて、その上に太く短い矢印が赤で記されていました。乗客・乗員に見せるためでしょう。他の三面は停留場名のみで、歩行者に見せることが目的でした。「御茶ノ水」と「御茶の水」、「二ノ橋」と「二の橋」など表記が微妙に異なるケースもあった模様です。

一番下には小型の琺瑯板が取り囲んでいました。ここには電車案内(運賃、主要停留場間の標準所要時間、始発と終車の時刻など)、広告、交通安全標語などが掲示されていました。残されている写真では丸善石油の黄色い板がかなり多く見られます。あの有名なCMは都電撤去計画実行の最中(1969年=昭和44年)に制作されていますが、さすがにそのスチール写真をそのまま使う時代ではなく、燕をデザインしたマークを大きくあしらっています。都電にとってライバルともいえる自動車ガソリンを販売する会社が主要スポンサーとなっていたあたりは皮肉にも見えますが、交通局でもガソリンをかなり多く消費していたはずで、丸善石油にとって“お得意様”だったと見受けられます。

丸善石油以外では柳屋ポマード、コロムビアレコード、製菓会社などが目立ちます。安全地帯用の停留場標広告が地元企業・医療機関優先だったのに対して、電柱用の広告は大手企業中心だった模様です。

新庚申塚停留場。(1994年3月) 
現在は道路拡幅により移転している。
19943月に新庚申塚停留場で撮影した写真です。
電柱ではなく、王子電気軌道が設置した架線柱に取り付けています。荒川線ワンマン化の際に移設されたものとみられます。鉄骨には「滝野川線」の表記が残されています。

この鉄骨が組まれた時代は、新庚申塚停留場はまだ設置されていませんでした。しかしこの表記は誤解を招きかねません。王子電気軌道が開通した1911年(明治44年)8月は、偶然にも東京市内の電車路線が公営になった時です。