2016年12月3日土曜日

板橋本町(上宿)2016

上宿停留所。(2016年5月)

大和町を出発すると、石神井川に向かい一直線に坂を下る。左には三菱モートルなどの看板を掲げる商店や町工場が続く。右には富士見病院と大丸鉄銅工場の大きな看板18系統の折り返し電車が使う渡り線を越えて、愛染通りの交差点を渡ると板橋本町の停留場に到着する。すぐ先に、石神井川にかかる「新板橋」の石造り欄干が見られる。

☆石神井川の河岸段丘

現在は首都高速道路の橋脚が視界をほとんどふさいでいるが、横からよく見ると橋脚を支える地面が斜めになっていて、南へ行くほど橋脚が長くなっていることが確認できる。石神井川が小規模ながら河岸段丘を作りつつ、現在の位置に納まった証である。

板橋区内の石神井川流域は特に北側で高低差が大きく、南常盤台から下頭橋にかけても結構急坂をなしている。都電写真でも板橋本町停留場をボトムとして、南北に勾配があることが確認できる。北区飛鳥山博物館の図録「トラムとメトロ 都電のすむ街」26ページ掲載の坂道写真を拡大してみると、板橋本町停留場近くに渡り線の軌道がうっすらと認められて、鉄道ピクトリアル誌掲載の配線図の「蓮沼町」は誤りであることの証拠となる。

都電志村線の延長は、戦局が厳しくなってきた1944年(昭和19年)7月に下板橋停留所からここまでの敷設が完成することでようやく実現した。当初は石神井川にかかる「新板橋」を停留場名としていたが、10月に志村まで延長すると「板橋町十丁目」に改められた。「板橋本町」への改称は、戦後の地番整理で「本町」が発足した1956年(昭和31年)のことである。

今でも石造りの欄干が残る「新板橋」。ここが真の新板橋である。
(2016年5月)
18系統の志村坂上-神田橋間は、戦後の都電系統の中では最長であった。利用客も多く、巣鴨電車営業所の乗務員には過重労働だったのだろう、機会を見ては板橋十丁目以北を打ち切ろうとしていたようで、41系統新設時には打ち切りを前提とした運転計画表まで作られている。しかし乗客の要望を盾にして、労使交渉で色よい返事が得られなかったものと推察する。それならば巣鴨営業所限定でも乗り換え制度を残しておけばよかった、が本音だったかもしれない。

運転実績記録によると、1964年(昭和39年)乗客数調査では18系統の総数295のうち板橋本町折り返し71、西巣鴨折り返し61966年(昭和41年)2月時点では総数239のうち板橋本町折り返し58で、いずれもおよそ25%、4本に1本の割合で板橋本町発着便が運転されていた。おそらくは朝のラッシュ時間帯中心運転であったものとみられる。

一方、記録では18系統の全便について巣鴨車庫で一旦調査を打ち切っているため、車庫以南の運転の様子が確かめられない。神保町折り返し便もあったとされているが、志村線内で「神保町」の幕を掲げた18系統の写真は今のところ確認されていないため、志村坂上または板橋本町-神保町の区間運転便が41系統設定後、とりわけ廃止前数年間に存在していたかどうかは、現段階ではわからない。(戦後の一時期、志村-神保町を基本系統として運転されていたこともあるが、ここでは話が煩雑になるため割愛する。)

巣鴨車庫-神保町の運転ならば、志村線営業時代から「35例外」として扱いそうではあるが。志村線廃止後は全便35系統として運転されている。

☆志村線唯一の残存映像

これまでも幾度か言及してきたが、「都電志村線 NHK」で検索すると

NHKクリエーティブ 消えゆく路面電車 志村線」

というWebサイトで、同局が1965年(昭和40年)にニュース番組用として撮影した、板橋本町停留場および大和町付近を走行する志村線18系統・41系統の映像を見ることができる。局公認の公開映像だから、ぜひ目を通していただきたい。もちろん無料。視聴可能な状態で残されている志村線の走行映像は今のところこのフィルムのみとみられる。

この映像から、板橋本町停留場は双方向が平行設置されていたことがわかる。巣鴨方面乗り場には時計つき電飾型停留場標が設置されていて、富士見病院の広告が掲載されている。富士見病院は戦後まもない頃から当地で診療を続けていて、2012年に「東京腎泌尿器センター大和病院」が旧富士銀行のみずほ銀行板橋支店隣にできるまでは、ほぼ地域唯一の大型総合病院であった。都電営業時代、富士見病院は知名度の向上を目指していたのだろう、停留場によく広告を出していた模様。一方、現在のバスや地下鉄では腎泌尿器センターが広告を流している。

停留場の北側には愛染通り交差点と渡り線があるはずだが、電車がアップで映されているためこの映像では確認できない。その代わり志村橋方面に向かって右側(北東側)には、日本勧業銀行の小さなビルが映っている。この建物は板橋区立公文書館で保存している、廃止が近づいた頃に撮影された18系統6107の写真右にも写っていて、看板はNHKの取材後に新調されていることが確認できる。

一方、この写真では富士見病院の広告を搭載した停留場標が認められない。志村橋と同様、廃止にさきがけて撤去されたと推定される。同時に板橋本町停留場の安全地帯は最後まで平行設置だったことも確認できる。この写真でも電車がアップで写されているため、渡り線が隠されている。発車後に撮影したカットもあればよいのだが。

首都高速道路の橋脚に覆われた、板橋本町停留場50年後の姿である。
NHK映像 板橋本町停留場、電車停車場面ロケ地付近。
(2016年6月)
都電写真の右端に写っているスポーツ用品店は、現在も高速道路下で営業中。その隣の家屋も現存している。一方、日本勧業銀行のビルは既になく、近くのマンション敷地に吸収されたとみられる。
右端のビル、赤い文字の看板が都電写真にも写るスポーツ用品店。
折り返し用渡り線は橋脚の間に設けられていたとみられる。(2016年9月)

☆愛染通り

現在の地下鉄では環七通り大和町交差点にある駅が「板橋本町」を名乗っている。駅の東側は本町だから誤りではないが、建設計画段階の仮称は「大和町」(やまとちょう)であった。ところが東武との相互乗り入れ交渉の途上で、乗り入れ駅を上板橋から埼玉県の大和町(やまとまち。現・和光市)に変更したいという東武からの申し出を受けて、混同を避けるため南側の「板橋本町」を採用して着工した。

結局この話は破談になり、東武の大和町は地元の市制施行で和光市に変わったのだから、地下鉄は大和町のままでもよかったことになる。いずれの大和町も、和光市もいわゆる「瑞祥地名」であり、高度成長期で町の成り立ちなどじっくり考える暇もなかったゆえのエピソードだろう。

都電が撤去された後もバス停留所は長らく「板橋本町」を使っていたが、都営バスが撤退してからも30年近く経過した2007年になって、突然思い出したかのように「上宿」に改称した。地下鉄の駅から遠いという理由であろうが、これもまた微妙な命名で、旧道の上宿地区の西側であることには相違ないが、ほとんど仲宿に近い場所である。「愛染通り」にしておけば目を引くし、地元の人にもなじみができたことだろう。NHKの都電映像では、板橋本町停留場標に「愛染通」の副名称がはっきりと映っている。愛染通りの知名度現在よりも高かった証左であろう。
本来の位置における「板橋本町」の名前は歩道橋に残されている。
(2016年5月)
Sunday’s Temple

その愛染通りは、愛染明王を祭る光明山愛染院日曜寺参詣のために、石神井川に沿って作られた道である。昔の人は「愛染」を「藍染」と読み替えていたようで、藍の染色を扱う業者の信仰が厚かったという。

現代人にとって「日曜」は最も身近な言葉のひとつだが、西洋由来の1週間の概念が入るまでは別の意味があったはずである。いわれははっきりしていないそうだが、愛染院日曜寺とはいかにも現代人にウケそうな命名である。18世紀前半に徳川吉宗の子、田安宗武の帰依により本格的な寺院としてスタートしたと伝えられている。空襲で伽藍などをほとんど失ったものの、宗武の子、松平定信揮毫の額は災禍を免れ、今も正面に掲げられている。
松平定信筆の日曜寺扁額。(2013年4月)
「愛染」を「縁結び」として参詣する人もいるそうだが、縁切り榎の伝説とセットで信仰されてきたとも考えられる。普段は公開されていないが、見てきた人のお話によれば、天弓愛染明王は情熱的な赤に染められているという。西洋系の愛のエピソードともよく合致して、”Sunday’s Temple”となっているあたりがまた心憎い。

私の世代で「サンデーズ」といえば公共放送の「レッツゴーヤング」。芸事の仏様ではないようだが、ここにもお参りに来れば話題になったかもしれない。

日曜寺の玉垣の前には石畳が連なっている。これは石神井川から引いてきた「中用水」の跡という。石神井川の水利をめぐっては、根村(現在の双葉町付近)から滝野川あたりまで、集落ごとの対立が絶えなかったとも聞き及んでいる。愛染通り沿いには日曜寺の他にもいくつかの社寺があり、地域の結束を強める場として利用されてきたことがうかがえる。

愛染明王の碑と玉垣。
左は中用水にかけられた橋の跡。(2013年4月)
中用水跡の玉垣には、昭和初期に震災復興のため再建したと記されている。下谷、浅草、本郷、神田など旧江戸市域のみならず、府下高田村(現・雑司が谷付近)、府下長崎村などの業者の名も刻印されている。

その時代には市電こそまだないものの、省線電車は既にあったはずで、おむすびと梅干、たくあんを抱えた半纏姿のごま塩頭の職人さんたちが電車に乗り、池袋で乗り換えて板橋駅で降りて、日曜寺まで歩いてきたことだろう。爺さんたちは全部歩きだったからここまで一日がかりで、二日は仕事を休まざるを得なかった、などと話しつつ、青く染まった指先でおむすびの包みを開いていたことだろう。

手水鉢の水は抜かれていたが、屋根裏には都電営業時代の1952年(昭和27年)に寄進された額が掲げられている。札には谷中、根岸、三ノ輪、龍泉、寺島町、業平橋など台東区・墨田区地域と、中野、落合早稲田など新宿区・豊島区・中野区地域の業者の名が掲載されている。玉垣および中用水橋再建浄財寄進業者の営業地域とほぼ一致していて、当時の藍染産業はこの2つの地区で栄えていたことがうかがえる。



日曜寺付近には「いかにも」の旅荘。ただし相当長い間営業ていない模様。


日曜寺の東、中山道寄りにある「智清寺」には、江戸時代末期から明治にかけて生きた医師・歌人、相沢朮(おけら)の墓所がある。やなせたかしさんの詞にも出てくる昆虫のオケラではなく、植物のオケラのこと。ウケラともいい、薬用に使われていたという。

相沢朮は、晩年を板橋町で暮らし「雪廼舎主人」と号し、和歌の指導に専念していたとのこと。都電ファンにとって「雪廼舎」はよく知られている名であろう。





☆停留場データ

開設日:1944年(昭和19年)75
旧名称:新板橋(194475日~同年104日)
板橋町十丁目(1944105日~1945年ごろ)
板橋十丁目(1945年ごろ~1956年ごろ)
改称日:1956年ごろ ※同年41日の地番整理による「本町」発足後
副名称:愛染通
設置場所:<巣鴨方面>板橋区本町40付近(現在も同じ)
<志村橋方面>板橋区大和町6付近(現在も同じ)
志村橋からの距離:営業キロ4.1、実測キロ4.127
停留場形式:安全地帯平行設置
停留場標:(巣鴨方面)時計つき電飾型
その他:志村橋方(愛染通り交差点北)に渡り線設置

☆本停留場付近で撮影された写真が見られるメディア

(1) 図録「都電のすむ街」26ページ
系統・車両番号不明 板橋本町停車遠景 渡り線存在確認

(2) 書籍「懐かしい風景で振り返る東京都電」116ページ
18系統神田橋行き405518系統志村坂上行き6122 撮影:五十嵐六郎 1966

(3) 書籍「昭和30年・40年代の板橋区」48ページ
41系統志村橋行き6100 最終日装飾車

(4)書籍「板橋区の昭和」127ページ
41系統巣鴨行き4072 渡り線付近走行

(5)同書 127ページ
41系統巣鴨行き6100 最終日装飾電車

(6)同書 127ページ
18系統志村坂上行き6146 

(7)同書 153ページ
18系統志村坂上行き4056 石神井川新板橋橋梁付近

(8)同書 153ページ
41系統巣鴨行き611641系統志村橋行き 番号不明 

(9) 板橋区立公文書館ホームページ
18系統志村坂上行き6107

(10) 板橋区立公文書館ホームページ
形式・番号不明電車3両 1964年東京五輪聖火リレー練習風景

(11) NHKクリエーティブ映像「消えゆく路面電車 志村線」1965年撮影
41系統志村橋行き611118系統神田橋行き600341系統志村橋行き6107