2016年12月2日金曜日

仲宿2016

仲宿停留所。(2016年5月)

板橋本町を発車すると共和金属のステンレス工場を左にみて、すぐに石神井川を渡る。石造りの立派な欄干には「新板橋」と記されている。旧道にかかる橋が板橋だからであろう。こちらは最初からコンクリート橋だが、向こうも名だけの“板橋”となって久しい。ソメイヨシノの桜は川を覆うように枝を伸ばし、花の季節は見事な光景を見せる。左手に板橋産連会館、右手に氷川神社の玉垣や小さい家屋を見ていると電車はスピードを落とし、仲宿に停車する。ここは乗蓮寺を中心に栄えてきた、板橋宿の中心であった。

☆区役所屋上から眺める“昭和”

仲宿停留場そのものを写した写真は現在まで見つかっていないが、地理測定所(国土地理院)地形図によれば、現在の赤51系統が板橋三中脇の道から中山道に右折する交差点のやや巣鴨寄りにあったと推定される。

「昭和30年・40年代の板橋区」や板橋区立公文書館ホームページには付近で撮影されたとみられる写真が数点掲載されている。停留場の北西側には氷川神社の杜があるはずで、電車の背景に写る林がそれに該当するのではないかと考えている。
仲宿停留場付近。後方に氷川神社の森。(2016年9月)
現在の神社玉垣には「昭和48年(1973年)」と記されていて、当時の区長の名前が最も目立つ位置に彫り込まれているが、もちろん都電の時代には存在していない。都電写真では神社の脇に数軒家屋があったようにも見える。

公文書館ホームページでは、都電営業当時区役所の屋上から北方向に向けて撮影した展望写真を公開している。電車は見当たらないが、都営バスと思われる車体が手前に写っている。このあたりは私も電車の窓から見た記憶があり、広い道(山手通り)が分かれ、バスが走っていく様子をたまに思い出す。車体を黄色と黒の警戒色に塗ったバス型の車を見かけて驚いたこともあった。あれは何の車だったのだろうか。「なかじゅく」の読み方も保育園に入る前から覚えていた。

「撮影時期不明」とされているが、写真をよく見ると本町の平和相互銀行板橋出張所の建物は既に完成しているため、1963年以降である。一方、環七大和町陸橋に相当する構造物はみられないため、19648月以前である。おそらく1963年(昭和38年)秋ごろと推定される。

道路の右側(東側)にはステンレス工場のネオンサインがみられ、イカロス出版の「懐かしい風景で振り返る東京都電」116ページ掲載の18系統すれちがい写真左端に写る看板と一致する。ゆえに同書の都電写真は板橋本町停留場、志村橋方面乗り場の南端でカメラを構えていたことが確認できる。同写真では電車の両側に国際興業バスが写っていて、新板橋の欄干こそ隠れているものの石神井川の谷間がはっきりわかり、当時の板橋区を代表する光景が記録されている。

住宅地図によればこのステンレス工場は「共和金属株式会社」で、石神井川の北側に接して建てられていた。ネオンサインは、東京五輪聖火ランナー練習風景を記録した写真(公文書館所蔵)にも写っている。その北側には交通局の変電所があった。都電運転用の電源はここから供給していたのであろう。
1964年東京五輪聖火ランナー仲宿中継点付近。(2016年9月)
一方、展望写真ではステンレス工場の奥に「日本相互銀行」の看板がみられる。当初、これは板橋本町停留場の写真や映像の「日本勧業銀行」の位置ではないかと考えていたが、住宅地図を参照すると日本相互銀行は愛染通りの南側に記されていて、日本勧業銀行(住宅地図取材時点では出店前)とは異なっていた。

☆仲宿と赤塚

板橋区の地図や町別データを眺めていると、丁目を持たない単独町名が結構目立つ。仲宿停留場両側の「仲宿」「氷川町」とも丁目がない。江戸以来の歴史を有する区が住居表示で強引に町名をまとめて「丁目」をたくさん作り住民の顰蹙を買っていた時代に、板橋区は独自の道を歩んでいたことになる。長後だけには厳しく接した一方、板橋町以来の地域には多彩な町名を与えているあたりがまた憎たらしい。

現地を歩いてみると、単独町名の多くは寺社が中核をなしている地域に多くみられることがわかる。寺社そのものの名前をとったケースは少なく、瑞祥地名式の命名が多数を占める。

宿場地域:本町、仲宿(乗蓮寺)

寺社地域:蓮沼町(南蔵院)、氷川町(氷川神社)、熊野町(熊野神社)、双葉町(根村氷川神社)、大原町(長徳寺)、大和町(日曜寺など)、東山町(長命寺)、宮本町(清水稲荷神社)、大門(諏訪神社)、仲町(轡神社)、桜川(御嶽神社)、弥生町(万福寺)

鉄道・街道地域:中板橋、富士見町

その他:中丸町、南町、大山金井町(※)、栄町、幸町、相生町、泉町

大山東町・西町、大谷口上町・北町はそれぞれ丁目の代わりとみなせるため割愛した。
(※)大山金井町は子易神社の門前にできた町だが、東武の線路が参道を分断したために町名も別れ、子易神社は現在板橋二丁目とされている。

このうち仲宿は宿場本陣と大規模な寺院を持ち、宿場以来の地域中核であった。gooサイトの1963年航空写真を見ると、乗蓮寺は新道沿いに広い土地を有し、墓地のスペースもたっぷりあったことが確認できる。しかし、首都高速道路の建設により1973年(昭和48年)に赤塚に移転した。その後“東京大仏”を建立したことはよく知られている。

この移転は板橋区のよくない癖のひとつ、現在同じ行政地域という理由だけで旧板橋町も志村も上板橋も赤塚もチャンプルーしてしまう動きを生み出した。

赤塚の郷土資料館に行くと、近くの公園に板橋宿最後の遊郭「新藤楼」門が移設されている。乗蓮寺移転の頃、仲宿の小学生が植えたという樹木がメッセージとともに並んでいる。しかしその光景は、どうも周囲のたたずまいとしっくりこない。同じ区になったのだからむりやり仲良くさせようという区政の思惑が透けて見える。

赤塚は、志村や板橋とは明らかに流れる風が異なる土地である。赤02系統のバスで大東文化大学を越えて、徳丸の坂を登るとその先は地方の小さな町のたたずまいで、観光目的とはいえ水車も残り、今でも農業に従事する家が少なくない。立派な門構えの和風屋敷もある。「トトロの森」をどこか思わせるバス停もある。近年は桂歌丸師匠の演目で有名な「怪談乳房榎」も赤塚が舞台のひとつで、赤塚庁舎近辺は今なおその話が伝わってくる気配を持つ。赤塚と仲宿を一緒にすることは、新宿区だからという理由で戸山や牛込を新宿と一緒くたにしてしまうことと変わらないはずである。

1995年から20年にわたり前野町で営業していて、昨2015年惜しくも閉店したイズミヤは「板橋店」としていた。関西資本のスーパーマーケットで、東京での出店は前野町だけだったそうだが、地元についてよく知っていたら「志村店」とするはずである。その後に開店した「イオンスタイル」も「板橋前野町店」としていて、本来「志村前野町」であることに気づいていない様子。地名はかくして壊れていくと実感する今日この頃である。

冒険家の植村直己さんは学生の頃仲宿で暮らしていたそうで、最後の登山に出かけるまで板橋区民を続けていたという。現在の植村冒険館は蓮根二丁目にあるが、墓は赤塚の乗蓮寺に建てられている。さらに、冒険館は数年先に東板橋(加賀)地区に移転することが内定していると、先日町内会から伝えられた。消息不明になって30年以上すぎても板橋区の都合にふりまわされているようで気の毒な感がする。改めて言うまでもなく、ご家族が納得されているのならばそれ以上口をさしはさめる筋ではないが、板橋区ならば板橋でも志村でも赤塚でも構わないという姿勢ならば、冒険館はいっそ故郷の但馬豊岡に一本化するほうがよろしいのではないかとも感じる。
 
「生きて帰ることこそが本当の冒険」と常々語っていたという植村さんの帰るべき家を「板橋区内だから」という理由でコロコロ変えられたら、植村さんのスピリットが泣いてしまうのではないだろうか。



☆停留場データ

開設日:1944年(昭和19年)75
一旦廃止日:1945年ごろ
復活日:1948年(昭和23年)610
旧名称:板橋町八丁目(194475日~一旦廃止まで)
板橋八丁目(1948610日~1957724日)
改称日:1957年(昭和32年)725
設置場所:<巣鴨方面>板橋区仲宿55付近(現在も同じ) 
<志村橋方面>板橋区氷川町19付近(現在も同じ)
志村橋からの距離:営業キロ4.5、実測キロ4.521
停留場形式:不明(安全地帯が設置されていなかった可能性あり)
停留場標:不明

☆本停留場付近で撮影された写真が見られるメディア


(1)書籍「昭和30年・40年代の板橋区」46ページ
18系統行き先不明6010ほか1

(2)同書 46ページ
東京労働金庫付近

(3)書籍「板橋区の昭和」126ページ
41系統巣鴨行き6116
  
(4)板橋区立公文書館ホームページ
18系統巣鴨行き4061