2016年12月14日水曜日

志村橋2016

志村橋停留所。(2016年5月)
☆都電史上最北端

昔の都電に関心を持つ人にとって「志村橋」は今なおよく知られている地名である。志村橋は結果的に、都電史上において最北端の停留場となった。ラストナンバー41系統の終点であることも加わって「さいはて感」が強まっているように見受けられる。

東京についてよく知らないであろう人に板橋区を説明する際、「東京の北の端」と伝えようとするが、それは正確ではない。地図を見れば、足立区には板橋区の北端よりも北に位置する地域があることがわかる。板橋区はその意味でも中途半端な存在である。

志村橋もまた、都電ファンにとって「さいはて」であっても、客観的に見れば中途半端な位置に設けられた終点である。地元では新河岸川に架けられた他の橋梁に埋もれるような感じで、おそらく近所に暮らしている人以外には「志村橋」の知名度はかなり低くなっていることだろう。池21系統の案内も「舟渡町経由高島平駅行き」であり、「志村橋経由高島平駅行き」と言わないあたりが何となく淋しい。

志村坂上-志村橋間の軌道は1955年(昭和30年)610日に開通している。その後1958年(昭和33年)に柳島車庫-福神橋間(江東区)の延長、秋葉原駅東口-万世橋間(千代田区)の接続による13系統運転区間延長、錦糸町駅前停留場(墨田区)整備による軌道延伸が行われたが、まとまった路線と系統の新設としては都電の歴史の最後を飾るものであった。当時の「板橋区広報」(現在の「広報いたばし」)610日に志村橋停留場で開通記念式典が挙行され、安井誠一郎都知事も参加して祝辞を述べたと記されている。地元のみならず、東京都にとっても期待の新線であったことがうかがえる。

地元では同年4月の開通を希望していたという。当初の計画では新河岸川に接する地点まで軌道を作り、停留場の北に引き上げ線を置く予定だったと記録されている。しかしその場所は勾配(1000分の13.45)があり、留置中の電車が動いてしまう危険性を指摘されたために軌道敷設距離を125m短縮して、停留場工事位置も南側に移す設計変更を4月に関係省庁宛申請したため、完成が遅れたとみられる。
バス左の道路標識ペイント付近が停留場跡。この位置から既に
新河岸川堤防に向けて勾配が始まっている。(2016年9月)
「都電の100年」(イカロス出版、2011年)に掲載された大正時代の市電延長の歴史の項目では、とりあえず大きな橋梁の手前まで作り、後で橋を越える部分を開通させる手法がよく取られていると概観されているが、橋梁取り付け部の勾配は昔から問題視されていて、工事を阻む要因となっていたことがうかがえる。志村線では将来の延伸を視野に入れていたと言われているものの、やはりこの問題をクリアできなかったのであろう。結果的に、大日本インキ東京工場正門付近が終点となった。

大日本インキは「川村インキ製造所」として1908年(明治41年)に本所区(現・墨田区)で創業。志村には坂が開通した1920年代に東京工場を置いたとみられる。(1921年=大正10年の国土地理院地図25000分の1「赤羽」ではまだ工場記号はみられないが、1934年=昭和9年の地図には掲載されている。)1945年(昭和20年)にはおそらく大空襲で本所の事業所が被災したのであろう、本社も当地に移転してきた。
DIC株式会社(大日本インキ)。
停留場は右の道路標識下あたりにあった。(2016年9月)
☆決め手は「レア車両写真」

志村橋停留場で撮影された写真は多く残されている。とりわけ41系統の装飾電車(60006100)が運転された最終日は、プロ・アマチュア問わず数多の人がカメラを向けていた模様で、後年の名列車廃止時に見られた「奇妙な弔い空間」の萌芽が既に生まれていたことが伝わってくる。最終運転日(1966528日)は、特に調べなくとも「土曜日」とわかる。テレビ演芸番組「笑点」の第1回放送がその年515日に行われたためである。20165月は偶然にも曜日が同じであり、「笑点」50周年はニュースでも取り上げられたため、たちどころに見当がついた。

都電志村線最終運転日はその年の入梅前最後の好天に恵まれていたことが、多くの写真から見て取れる。私も最終日に乗せてもらったと聞かされていたが、母親が毎日の生育状況を記録していた日誌によると、当日は終日祖父母宅で過ごしたと記されているため、時間の経過による母の勘違いであり、当日都電に乗車したとすれば動坂線のほうである。おそらく前日祖父母宅に向かう際が志村線の最終乗車であったのだろう。地下鉄6号線のほうは開通日に乗車していて、こちらは自ら凄まじい文字で日記に記している。

最終運転が近づいた頃の写真を見ていると、停留場標の背後(道路東側)に当時としては結構おしゃれな外観を持つビルが建てられていることがわかる。このビルは、長年当地に開設されていた「志村橋外科病院」のものではないかと、まず考えた。一方、鉄道写真の第一人者である諸河久さんが1964年(昭和39年)に安全地帯から南東側を撮影した写真では、いかにも戦中戦後を背負ってきた感の漂う昔ながらの2階建てに「志村橋外科」の古色蒼然とした看板が掲げられている。さらに諸河さんや吉川文夫さんなどが1960年代前半(昭和40以前)に反対方向(南側)から停留場安全地帯を撮影した写真では、大日本インキ前の信号機との位置関係が廃止時点とは異なっているようにも見える。

ゆえに一時、「志村橋終点は1964年(昭和39年)から廃止までの間に南側に60mほど移動した。廃止申請資料に記された志村線の距離が開通時点よりも短いのはそれを反映しているためであろう。」と、早とちりしかけたが、それは事実と異なることにやがて気がついた。志村橋停留場の“移動”は、1955年の建設計画時点での話であり、開業してからは一度も動いていない。その思い込み修正に際しては、50年後の現地調査で信号機の位置を確認したことに加えて、諸河さんが撮影した「ウルトラレア写真」が大きなヒントになった。

林順信さんと諸河さんの共著「おもいでの都電」(保育社カラーブックス、1986年)の車両解説ページには、6500形唯一の車両である6501(三田営業所所属)が「2」の菱形系統板をつけて「回送車」の幕を掲げ、雨の降る志村橋停留場に来ている姿がさりげなく紹介されている。「都電の消えた街 山手編」によれば、1964年東京五輪の頃の寒い雨の日曜日、鉄道友の会の企画で三田営業所の6501を借り切り、三田から志村橋まで往復したと記されている。後の地下鉄を先取りするような企画を立てていたことに驚かされるだけでなく、あえて「2系統」としたあたりにも会員諸氏の「濃さ」が伝わってくる。

母の育児日誌によれば、1964年(昭和39年)1018日の日曜日、雨で終日肌寒いと記されている。三田営業所でその種の企画のため普段あまり動かさない特殊形式車両を出すとすれば、諸河さんのご記憶とおり日曜日であろうことを勘案すると、同日の運転・撮影の可能性が濃厚である。私が家で退屈して母を困らせていた頃、諸河さんは近くで写真を撮っていたのだろう。

以下はあくまでも私の勝手な想像で、事実と異なっていたら非礼申し訳ないが、諸河さんはまだ10代、学生のはずで、大正時代から市電・都電を見てきた大先輩方に囲まれて、おそらくは車内で小さくかしこまっていたことだろうか。志村橋での写真はようやくその緊張がほぐれた様子までも伝わってくる。あるいは同世代か少し年長の若い会員たちのみの企画で、のびのびと乗ってきたであろうか。

話が大きくそれたが、この6501の写真の背後に志村橋病院の古い2階建てとビルの両方が写っている。その位置関係は「都電の消えた街」掲載の、最終日装飾電車の写真と同じである。これが動かぬ証拠となり、停留場は廃止まで動いていないことに気がついて、我が眼力の至らなさを痛感した。

GooというWebサイトには「昭和初期の航空写真」が掲載されている。初期とはいっても1947年(昭和22年)の米軍撮影、1963年(昭和38年)の国土地理院撮影による東京都内の航空写真で、現在の地図とオーバーラップさせる趣向である。板橋区までスクロールして、拡大していくと志村線の軌道や電車の屋根が記録されていて、嬉しくなる。(その一方で当時の家を表示させると、ここで母に抱っこされていたと、胸が熱くなる。撮影当日は蒸し暑く、母子ともどもぐったりしていたらしい。)志村橋停留場付近を表示させると、外科病院の2階建てはL字形で、ビルを囲む格好であったことが見てとれる。おそらくビルはかつて病院の庭で、諸河さんが撮影する直前くらいに竣工された“新館”ではないかと結論づけた。

志村橋停留場の北端には、昔ながらの「石灯籠型」停留場標が設置されていたことは諸河さんや野尻泰彦さんなど、廃止決定前に訪れた人が撮影した写真から確認できるが、どうも廃止の数日前に事前撤去されていた模様である。これもまた、後年志村線写真紹介記事を掲載する書籍やホームページなどで撮影場所の正確な特定に至らず、怪しげな解説が横行する原因となった。

☆都電を消して半世紀

志村橋の2016年を訪ねてみる。大日本インキは「DIC」と称しているが、今なおこの地で存在感を示している。バス停留所は都電停留場のやや北に位置している。時刻表を見ると、およそ20分間隔で運転されている。都電に加えて、東京駅、赤羽、池袋、浅草、蕨、戸田、浦和などに向かう多数のバス路線を抱えていた地としては、さすがに淋しすぎる未来だろうか。周囲の工場跡地はマンションまたマンションであるが、休日の夕方は人通りもまばらで、高速で通過していく自動車の音だけがこだまする、無機質な街である。これが都電を追放して50年後の現実である。
路線バスも今は1種類の系統のみ。(2016年5月)
志村橋外科病院は既にない。2006年ごろまでは診療していた模様だが、今は介護施設がビルに入居している。そのビルも、都電の時代のものとは異なる模様。志村橋外科病院は後年2階建てを取り壊す際にビルを新調して、その建物を介護施設が引き継いだものとみられる。介護施設は慰問演奏音楽バンドのWebサイトなどから、2009年までには開業したようで、まさに東京の21世紀を象徴する光景である。入所なされている方の脳裏に、電車の記憶はどこまで残されていることだろう。
志村橋外科病院は介護施設へ。右の商店も全て閉店していた。(2016年6月)
横断歩道左の樹木付近に「志村橋」の停留場標
と丸善石油広告があった。(2016年6月)
外科病院から都営志村車庫北の交差点にかけて数軒あった店舗は、平成初期の1990年代にはほとんど健在であったが、今は全てシャッターが下ろされている。大日本インキの南隣に位置して、安全地帯の北端から南方向を撮影した都電写真の右に写っている、壁一面に看板を掲げ工務店も既に廃業している様子だが、そこで建て替えられた家の表札を見ると、工務店と同じ名前であった。当時の社長さんは亡くなられているかもしれないが、ご家族は今なお暮らしているのであろう。

野尻泰彦さんが「都電春秋」に載せた志村橋終点の53年後を取材してきた。


「都電春秋」220ページ掲載写真(1963年3月撮影)位置付近。右の元工務店は都電時代2階建てだったが
現在は3階建て。路上の白標識ペイント付近に安全地帯が設けられていた。(2016年10月)
新河岸川を渡り舟渡町に入ると歩道橋が設けられていて、そこに「志村橋」と記され、巣鴨までの距離を示す標識が掲げられている。
「志村橋-巣鴨」を伝える標識。(2016年6月)
商業施設がやせ細っていく一方でマンションは増え続ける。志村橋外科病院の北隣、新河岸川に面した土地にもマンションが建設され、貧乏人の私の家にも一時期パンフレットが頻繁に届いた。高島平団地は昭和型ニュータウンが共通して抱える問題に直面しているが、志村低地地域の21世紀型民間マンションは街としての盛りや老いを経験することなく、案外早く潮が引いていく懸念もある。浮間舟渡の名につられてマンションを購入した人のどれほどが、志村橋のバス停に気づくだろうか。おそらく皆さん自動車で買い物に行けるほどの富裕層とみられるが、暇を得られたら「志村橋」を検索して、示される画像にぜひ驚いてほしい。

そのようなことを考えつつ北を向くと、中山道の先に東北新幹線の高架が見えて、時折列車が行き交う。“半世紀後の志村橋”にふさわしい光景と言えるだろうか。
東北新幹線の高架を望む、都電追放50年後の志村橋。(2016年5月)
☆最後の最後に…

野尻泰彦さん著の「東京都電風土記」(伸光社、1984年)をオークションで購入した。

都電の廃止が本格的に取り沙汰される前の1960年代前半に撮影なされた貴重な写真を見ることができる。著者は高校などで日本史の教師をなされていた方のようで、江戸以来の街の変遷にも詳しい。文章にも品があり、胸打たれる記述もいくつかある。よい買い物と思いかけたところで、最後の「第四十一系統」のしめくくりとして311ページに以下の記述が現れる。

<引用>
「第四十一系統は(中略)大小数多くの軍需工場に、カーキ色の服に身をかためた人々を、来る日も来る日も運んだことであろう。」(東京都電風土記)
<引用終了>

最後の最後に、見事にずっこけさせてもらった。

既に述べたように、

志村線41系統の運転開始は1955年(昭和30年)610日である。

大切なことゆえ、もう一度述べる。

41系統は、昭和30年から昭和41年にかけておよそ11年間運転された。

野尻さんの世代ならば、それが何を意味するか自ずと理解が及ぶことだろう。

いささか意気消沈気味だが、運転手が時計を見てマスコンハンドルに手をかけたようだ。そろそろステップを上がり、出発しよう。


☆停留場データ

[凡例]

※停留場開設日、名称の変遷、志村橋からの距離:

「日本鉄道旅行地図帳 5号 東京」(新潮社、2009年)41ページ 笹目史郎さん制作東京都電停留場一覧データ、および「都営交通100周年 都電写真集」137ページ掲載「軌道線路実測粁程図 昭和39年」のデータによる。

※設置場所:

10000分の1地形図 志村」「同 王子」(地理調査所、現・国土地理院、1957年)、「東京都区分図 板橋区詳細図」(日地出版、1969年。新旧町名対応つき。)およびGoogleマップによる。

※停留場形式、停留場標、副名称表示:

本ブログ筆者の写真観察による。停留場標については、安全地帯設置用の形態について記す。(電柱設置用は一部未確認であるが、志村線のみならず都電全停留場に設置されていたとみられる。)

なお、全停留場とも最終運転日は1966年(昭和41年)528日、廃止届出日は翌1966529日である。


開設日:1955年(昭和30年)610

設置場所:板橋区長後二丁目24および(旧)蓮根三丁目24付近
(現・板橋区東坂下二丁目22および坂下三丁目33付近)

志村橋からの距離:営業キロ0.0、実測キロ0.000

停留場形式:単線引き込み終点型、安全地帯設置

停留場標:石灯籠型(停留場名を記した標柱の上に電球を取り付けるスペースを有する形式)

☆本停留場付近で撮影された写真が見られるメディア

※この項目は本ブログ筆者が書籍およびWebサイトに掲載されている都電志村線の写真を20169月に調査・解析の上、分類したデータである。なお、本項目においては人名の敬称を省略する。また、順不同である。

(1) 書籍「わが街わが都電」(東京都交通局、1991年)112ページ
41系統志村橋行き6134

(2) 書籍「都電の消えた街 山手編」(大正出版、1983年)121ページ
41系統巣鴨行き6109 左隣に国際興業バス127系統 蕨市発浅草寿町行き
撮影:諸河久 19644

(3) 同書 134ページ
41系統巣鴨行き6100 最終日装飾車 撮影:田中登

(4) 同書 135ページ
41系統巣鴨行き6100 最終日装飾車 撮影:田中登

(5) 書籍「保育社カラーブックス712 おもいでの都電」(保育社、1986年)
141ページ
2系統回送車(団体専用電車)6501 撮影:諸河久 196410

(6) 書籍「東京都電の時代」(大正出版、1997年)109ページ
書籍「都電が走った昭和の東京」(生活情報センター、2006年)145ページ
41系統巣鴨行き4071 撮影:吉川文夫 19608
※以上2枚は同一写真

(7) 書籍「都電春秋」(伸光社、1968年)220ページ
書籍「東京都電風土記」(伸光社、1984年)311ページ
41系統巣鴨行き6115 撮影:野尻泰彦 19633
※以上2枚は同一写真

(8) 図録「トラムとメトロ」(新宿区歴史博物館・板橋区郷土資料館、1998年)
54ページ
図録「都電のすむ街」(北区飛鳥山博物館、1998年)26ページ
41系統巣鴨行き4062 撮影:高松吉太郎
※以上2枚は同一写真

(9) 書籍「懐かしい風景で振り返る東京都電」(イカロス出版、2005年)56ページ
41系統6000形側面と停留場標 車両番号不明 撮影:楠居利彦 19665

(10) 書籍「都営交通100周年 都電写真集」(東京都交通局、2011年)49ページ
41系統巣鴨行き6000形? 撮影:阿部敏幸

(11) 同書137ページ
41系統巣鴨行き6082? 撮影:阿部敏幸

(12) 個人ブログ 41系統巣鴨行き4063

(13) 個人ブログ 41系統巣鴨行き6126

(14) 個人ホームページ 41系統巣鴨行き8000

(15) 個人ホームページ 41系統巣鴨行き4065

(16) 個人ホームページ 41系統8000形側面と停留場標

(17) 個人ホームページ 41系統志村橋行き4067

(18) 個人ホームページ 41系統志村橋行き6100 最終日装飾車 カラー撮影
※説明文に誤記あり(巣鴨四丁目と勘違いなされている)

(19) 個人ホームページ 41系統巣鴨行き6107 19665
※説明文に誤記あり(志村坂上と勘違いなされている)