2016年11月16日水曜日

志村線定説を検証する(3)軍需工場が延長を促進した?



都電志村線について紹介する記事では、「沿線軍需工場通勤輸送」の話は欠かせません。鉄道関係の書籍でも、板橋区でもそのように説明しています。日中戦争開始(1937年=昭和12年)により都心方面から軍需工場が続々移転してきて、通勤輸送力不足が深刻化したために志村線の延長が実現した、というストーリーです。板橋区立公文書館ホームページの記述によれば転入工場はおよそ170、市電の朝夕通勤輸送力は15,000人程度で、需要のおよそ半分だったと記されています。詳しく記されていませんが、日中戦争開始から終戦までの期間とみられます。戦争末期には空襲の被害を最小限に抑える目的も加わったとされています。

「軍需輸送応需を目的として志村線が開通した」という説明は、おおむね正しいとはいえます。しかし時の経過に加えて、国策の大きな過ちでもあったため、細部が省略されて伝わり、歴史が捻じ曲げられてしまうきらいがあります。

<引用>
「第四十一系統は(中略)大小数多くの軍需工場に、カーキ色の服に身をかためた人々を、来る日も来る日も運んだことであろう。」(東京都電風土記)

「戦争の手伝いをした41系統は、戦後になって日本の復興を下支えする役割を果たしました。」(都電跡を歩く)
<引用終了>

と、新旧問わず板橋区にとっては名誉毀損ものの記述が平気でまかり通ることも、軍需輸送の側面を強調しすぎているがゆえでしょう。

くどいようですが、幾度でも繰り返します。

41系統は板橋区にとって「平和の象徴」です。
電気冷蔵庫、電気洗濯機、テレビジョンが「三種の神器」と呼ばれ、♪明るいナショナル~CMソングができた時代に志村橋への延長が実現しました。美空ひばりさんの人気が絶頂を迎え、島倉千代子さんがデビューした頃です。翌年には石原裕次郎さん、小林旭さんなどが人気をさらいはじめました。サンフランシスコ講和条約で独立が回復してから4年目、テレビジョン放送が始まってから3年目です。都心の駅前では、当初の熱狂こそおさまっていたでしょうが、まだ「街頭テレビ」に足を止める人も少なくなかったでしょう。

18系統にしても、軍需輸送として運転された期間は1年にも満ちません。1945年(昭和20年)413日の空襲で巣鴨車庫が被災したかまでは記録が見つかりませんが、豊島区から板橋区にかけて甚大な被害を出し、その後は電車を満足に動かすこともできなかったはずです。それを勘案すると野尻さんの描写は「第十八系統」が正しく、それも実質半年程度のことでしょう。

18系統が志村まで延びてからはむしろ終戦後の極端な食糧・燃料不足、ハイパーインフレの中、外地からの引き揚げ者や傷痍軍人や食料買い出しに行く客で車内があふれ返り、進駐軍の将兵がふんぞり返る焼け跡を、忍びがたきを忍びつつ、ひたすら走り続けたのです。

荒れ放題の都心方面から、窓枠にぶらさがるほどの乗客の群れにもまれつつ乗ってきて終点近く、ようやく車内が少しすいてきて視界が開けるや、志村一里塚に青々と茂る榎と澄んだ青空が目にまぶしく、終点で電車を降りると、その先の広々とした坂道の向こうには煙も出なくなった工場を取り囲むように、立ちはじめた初秋の風にゆれる夏草の緑が点々と見渡せて、もう空襲を心配しなくてよいと思った瞬間、国破れて山河ありを実感した人も少なからずいたものと思われます。出征のときは徒歩で指定場所まで出向いたが、散々苦労してようやく帰ってきたら電車ができていて驚いた、という人もいたかもしれません。

この記事では私が調べられた範囲内で、誤解や誤認がありうることは承知の上で、都電志村線と軍需の関係について考察してみましょう。停留場記事などで既に述べたお話との重複もありますがご容赦ください。

中山道都内地域工業化の歴史を概観すると、大きなポイントは以下の4点でしょう。

11920年代前半(大正時代中期)、志村坂が開削されたことによりそれまでの武蔵野台地側だけでなく、荒川低地側の工業開発が可能になった。

2)関東大震災の発生により、上記の動きがさらに加速された。

3)軍隊直轄の施設が多い王子区(現在の北区)に対して、板橋区では民間企業による化学・光学製品生産が主力だった。従って、そこで作られた製品を運ぶための道路が必要とされた。

4)板橋区では地形の制約もあり、大規模工場よりもむしろ街角の中小工場が多く設置され、下請けとして機能した。またそれゆえに、日中戦争が長引いてくると都心方面からの移転受け入れ先として選ばれやすかった。

まず、(1)の志村坂開削について。
この工事についてはなぜか郷土史でも全くといってよいほど触れられていませんが、極めて重要なインフラ整備です。志村坂は広くゆったりと幅が取られていてそう急坂でもなく、「ぽこぺん都電館」によれば電車の運転面でも「準特別坂路」指定だったといいます。しかしここは、大正時代初めごろまで“断崖絶壁”だったはずです。だからこそ関東ローム層の岩肌むき出しの急勾配を曲がりくねり、後年の用宗と焼津の間みたいに富士山が反対方向から見えると評判になるほどの清水坂が街道になったのです。街道はあの細く不便な道にとどめて、周囲は断崖絶壁を残すことで、荒川とあわせて二重に江戸防衛の意味を持たせていたとも考えられます。

志村坂の工事は中山道の新道計画にさきがけて、1920年(大正9年)ごろに実施されました。第一次世界大戦の軍需物資提供で大きな利益を得た重工業系企業が戦後不況を乗り越えるためにもさらなる増産で業績を向上させ、より便利なものを研究開発するため、東京市街地の近郊に思い切った設備投資ができるだけの広大な土地を必要としていた状況に応えるものと考えられます。曲がりくねった細い道の清水坂だけではその需要にとても応じられません。

中山道の本蓮沼から志村集落にかけては、志村坂開削以前からある程度整備が進んでいたことが国土地理院の地図より読み取れますが、それまで断崖絶壁だった志村集落北側に自動車の通行が可能な道路が設けられて低地側と通じることにより、文字通り“道が開け”ました。それには大量の土砂の調達と、大人数の施工従事者が必要とされたであろうことは容易に想像できます。

最初に低地側に進出した工場は志村坂のすぐ脇、小豆沢町の「日本セルロイド会社」(現在のダイセル)東京工場だった模様です。乗合自動車事業も、直線で勾配のゆるやかな志村坂が開通することで、初めて路線設定が可能になりました。その時代のバスでは、少しでも雨が降れば到底清水坂を越えることはできなかったでしょう。

続いて(2)について。荒川低地側開発の萌芽が見られた矢先に関東大震災が発生して、都心・城東方面の工業生産が壊滅的打撃を受けました。帝都復興のために多くの工業物資が必要とされたことにより、開発の始まった中山道地域が甲種工業特別地域指定を受け、工場の進出が加速しました。日中戦争の時代の10年ほど前から工場進出の流れはできていました。最終的には国の命令でほぼ全てが軍需工場化しましたが、最初の頃は民間生活需要のほうが主力だったと考えられます。

「民需から軍需へ」の流れは、軍備増強を目的とした実質国営工場として開設された板橋火薬製造所明治時代に体験しています。志村の工場群はそれを追体験したともみなせます。

中山道はさらに容量を広げる必要が生じて、1880年代(明治10年代)に簡易補修を行ったままで放置され、上記の通り部分的改修にとどまっていた巣鴨から戸田橋までの区間における本格的新道計画が改めて具体化しました。この時点では省線赤羽駅から急峻な台地を越えるルートはまだ整備されていません。川越街道沿いからも満足な道はできていません。

板橋駅からの距離が長い地域に、工場とそれに付随する新しい市街地を形成していくには、中山道に基幹となる交通機関が必要です。乗合自動車だけでは心もとなく、いずれ工場が増えていくと早晩深刻な輸送力不足を露呈しかねないため、新道整備とセットで、都心方面で便利な市内交通として信頼の厚い市電を延長してほしいという声が挙げられたと考えられます。

さらに(3)と(4)について。「都電跡を歩く」でも、なぜ志村線は物資や労働力が不足した戦争末期になって敷設されたかと、素朴な疑問を呈しています。その著者が出した結論は、失礼ながら的外れに近いとみなさざるを得ません。論の展開方法からしてねじれていて、未熟の臭いが漂ってきます。

しかし地元の目から見ても、この開通時期は気がかりです。もう少し早く、1935年(昭和10年)ごろに開通させておかなかったことは不思議です。東武は常盤台住宅地の開発を1936年(昭和11年)から1939年(昭和14年)にかけて行っていますし、昭和10年前後ならばまだ戦争は国民の日常生活に深刻な影を落としていませんでした。

地元では板橋線の開通間もないころから市電延長請願を出していました。新道工事完成の次の年、1938年(昭和13年)6月には板橋区議会で「東京市営電車 板橋町六丁目~志村町戸田橋間及び池袋駅前~護国寺間延長即時実施」を東京市に陳情しています。「市電延長促進委員会」が結成されて、翌年4月に池袋駅~護国寺間が開通すると、6月に再度東京市長宛に志村坂下への市電延長を陳情しています。

その意見書には、現状の乗合自動車2社(東都乗合、中仙道乗合)はいずれも地獄のような混雑で、始発停留所以外では実質乗車できない。乗合自動車で通勤する工員は道路混雑のため遅刻が常態化、監督の上司も遅刻するため始業時間を繰り下げざるを得ない。決して大げさではなく、一度現地に来てみればわかる。これでは東京市域均一発展の目標に反するのみならず、未曾有の非常時局に直面して、物資総動員が叫ばれている現下の情勢からみて、国家の消長に関する問題でもあるといった内容が記されています。おしまいには都心地域の市営乗合自動車の閑散路線を整理してでも、市電志村線建設に予算を割いてほしい、東京市にお金がないというのならば、地域の工場長は寄付を行うつもりであると訴えています。

それにもかかわらず、志村方面の延長は下板橋開通から15年も引き伸ばされる結果となりました。

まず、電気局側の事情から見ていきます。
「都電の100年」掲載の「都電100年のあゆみ」によると、1935年(昭和10年)前後の電気局は明治時代、民間経営で市街電車事業を手がけていた旧・東京鉄道買収資金を賄うために発行された市債返済に巨額の資金を必要としていた上に震災復興費用がかさみ、労働争議も絶えない状態だった模様です。

その上に昭和初期は震災応急措置としてスタートした民間の乗合自動車の勢力が拡大して、市電と競争状態になっていて、さらに1929年(昭和4年)の大恐慌が重なり、志村などに投資できる費用は到底捻出できなかったと推定されます。1934年(昭和9年)調査の乗客総数は震災前の6割程度にまで下がっていたと記されています。その流れが変わるのは日中戦争を始めたことで欧米との仲が険悪になり、石油の輸入を止められたため自動車の運転に厳しく制限をかけるようになった1940年(昭和15年)ごろからといいます。

続いて、板橋区側の事情を見ていきます。
区発足まもない1934年(昭和9年)ごろに作られた「大東京区分図 三十五区之内 板橋区」を丁寧に見ていきましょう。この時点における主な工場は、荒川低地側では

・特殊鋼管工場(当時は埼玉県北足立郡戸田村、現・舟渡四丁目新日鉄住金)
・皇国産業工場(志村蓮根町→現・舟渡三丁目、跡地は都営住宅、保育園など)
・東洋ファイバー工場(同上、後年の大日本染料、跡地は民有地)
・川村インキ(志村蓮根町→長後二丁目→現・坂下三丁目、後年の志村橋電停前大日本インキ、現・DIC
・輸出セルロイド工場(志村長後町)
・日本マグネシウム会社(志村長後町→長後二丁目→現・東坂下二丁目、跡地は後年の都営バス志村車庫)
・志村化学工業(同上)
・大畑伸銅所(志村長後町→長後一丁目→現・坂下二丁目、後に日東金属工業を経て現・サンエツ金属、跡地は坂下二丁目けやき台ハイツ)
※埼玉県八潮市に現存する日東金属工業とは異なる。
・パイロット万年筆志村工場(志村長後町→長後一丁目→現・東坂下一丁目、跡地は出版物取次業の中央社)
・日本セルロイド会社(志村小豆沢町→小豆沢三丁目、現・ダイセル、跡地は小豆沢ガーデン→セブンタウン小豆沢)

武蔵野台地側では
・オリエンタル酵母(旧・志村町一丁目→小豆沢三丁目、現存)
・凸版印刷(志村一丁目、現存)
・東京光学(志村本蓮沼町→蓮沼町、現・トプコン)
・東京火薬工業※(志村中台町→中台三丁目、跡地は旭化成→高層団地・中台サンシティ)
・新興大内化学薬品工場(志村前野町→前野町三丁目、跡地はビバホーム前野店)

などが記されています。
(※)東京火薬工業は、正式には「東京瓦斯電気工業火薬工場」と称していたといいます。東京ガス機械部門独立からスタートして、「瓦斯電」と略された会社で、現在の有名自動車企業に事業が継承されています。

このうち軍事と直結している会社は東京光学、特殊鋼管、東京火薬工業で、他は化学物質大量合成を業とするプラント工場がほとんどです。当然、引火性・爆発性が極めて高く、人体に有害な材料を取扱います。さらにその材料や生産した製品は、当然他の場所との間で運送しなければなりません。それには当時のトラックでも安全に走行できる道路が必要不可欠です。

当時の物資輸送には、河川の水運も重要な方法でした。板橋区ホームページ「板橋区の工業の歴史 草創期から終戦まで」にも記されています。舟渡町(一部は当時の埼玉県北足立郡戸田村)の川沿いにいくつか建てられていた重工業系の工場は、製品を荒川・新河岸川経由で東京湾・横浜港あたりまで運搬することを想定した立地でしょう。

対して河川からいくらか離れた場所にある合成化学系工場製品の輸送手段としては、水運だけに頼らず、陸上交通手段の充実を必要としていたとも考えられます。マグネシウムは化合物としても扱っていたでしょうが、単体は水分厳禁で、水に触れるとたちまち爆発的反応を起こして発火することはよく知られている…はずですね。それよりも荒川や中小河川の水は、合成反応や機器洗浄などに使う水利として主に用いられていたとみられます。

前述の地図を見ると、1930年代(昭和初年)で現在の環七大和町以東区間は既に開通しています。予定線ですが、現在の地下鉄西台駅やダイエーの南側を通る都道446号長後赤塚線も既に広い幅員で計画されています。以上の状況から、志村地区の中山道新道や後年の環七は、板橋区で生産された危険物を王子区の軍事施設や都心の建設現場等に運ぶ役割をまず担わされていたと推定できます。それゆえに地元が市電の延長を請願しても、石油に余裕があるうちはなかなか認可されなかったと考えられます。

志村橋延長直後の都電写真では、車が少なくのどかな中山道の姿が写っていますが、中山道の自動車通行数はその時代(1955年=昭和30年前後)に最も少なく、戦前は工場のトラックが頻繁に往来していて、現在とそう変わらない状態だったのではないかと推測しています。

一方1930年代は、当時「富士見通」「練馬道」と称されていた現在の富士見街道沿い、宮本町から前野町南部にかけて銅や計測器、洗剤、食品などを扱う中小の工場が並んでいました。その中には戦後有名企業になったヱスビー食品やタニタ製作所もあります。

(注)「板橋(厳密にいえば志村です)の光学産業」の代表格として語られる、国内最初の一眼レフカメラ開発のペンタックス(旭光学工業、志村前野町→前野町二丁目)は、この時代はまだ当地に事業所を置いていませんでした。その場所には戦前「大和光学製作所」があり、1944年(昭和19年)に合併によりキヤノンの前身企業「精機光学工業」と改称して、同社が1951年(昭和26年)大田区下丸子に移転したため、翌年に旭光学が土地物件を買い取り、本社を置いたということです。前野町二丁目は中山道よりも富士見通のほうが近いため、従業員の通勤は大和光学から旭光学時代を通じて、都電よりも東武の武蔵常盤駅からバス派が多数だったとみられます。

舟渡町など川沿いの大きな工場は当時の兵舎と同じように、敷地内で従業員の生活が完結できる環境が整えられていて、従業員が通勤する必要なかったとも考えられますが、中小の工場は通勤してもらわざるを得ません。東京市長への陳情資料として板橋区議会で調査したところ、1938年(昭和13年)時点で寄宿舎を持つ沿線企業はごくわずかで、志村地域工場職員総数推定13,180人に対して、寄宿舎で暮らして通勤の必要がない人は600人にすぎないとしています。徒歩圏内に家を買っている人や近隣の実家暮らしもごくわずかだったでしょう。工員の給料では夢のまた夢だったと思われます。ほとんどの家庭で何人も子供がいた時代、就職して給料をもらえるまで育った子供は実家に置いておけませんし、子供の側も嫌だったでしょう。

当時の乗合自動車路線は市電下板橋の他、省線板橋駅、東武池袋駅・大山駅から通じていた模様です。志村地区は現在のトプコンの脇の道を通る赤羽・王子方面からの路線で賄われていたと考えられます。現在の環七や中山道新道は実質軍用・産業用道路で、乗合自動車はほとんど使わせてもらえなかったと読み取れます。

中山道新道整備の際に懸念された輸送力不足は、この時点で現実の問題となっていました。それでも電気局がすぐに応じられなかったのは、上記の債務返済にまだしばらく時間がかかる見込みに加えて、省線電車にすぐ乗り換えられる池袋を優先せざるを得ないという事情だったと推定します。別項で詳しく紹介しますが、池袋側も武蔵野鉄道の免許出願から相当長く待たされていました。

1943年(昭和18年)ごろから戦局が急速に悪くなると乗合自動車の運転に制限がかかり、さらに都心方面からの工場大量転入が加わり、新たに通勤が必要になる人が急速に増加したため、電気局改め交通局はようやく志村線延長に腰をあげましたが、乗客が増えたといっても資材に余裕がなく、電車が混雑しても車両を増やすことできず、王子電軌や城東電軌などの併合にかかる経費が新たに発生したことにより財政的には相変わらず厳しかったため、都心路線の急行運転常態化という形による不要不急停留場や短距離路線の廃止と引き換えで実現しました。地元の勤労動員もそんな交通局側の事情を反映するものだったとみられます。

戦争が終わりしばらくたつと、一旦解散や操業停止していた旧軍需工場、軍事協力民間工場は国の復興と平和産業の構築のため再び稼動を始めます。東京光学が土地の一部を山之内製薬(現・アステラス製薬)に売却して、小豆沢工場・東京研究センターとして抗生物質などの製剤事業が始まった、などの事例は象徴的でしょう。

やがていわゆる“特需景気”で生産力が大きく向上、沿線住民の暮らしもようやく安定の兆しがみられます。志村線の荒川低地側への延長もその流れを交通局が評価したがゆえに実現できたと考えられます。

「都電18系統が軍需輸送に貢献した期間はごく短く、むしろ戦後の復興を支える工場従業員の通勤に供され、現在の板橋区の平和の礎を築いた。」

とでも書いてあげられないものでしょうか、ねえ公文書館さん?