2016年12月4日日曜日

大和町2016

大和町停留所。(2016年5月)

清水町を出発した電車は市街地を走る。家屋は建てこみ、道路沿いにはビルも建ち並んでいる。右側には硝子工場跡に建てられた神戸銀行板橋支店の大きな看板と前庭。左側はドライクリーニング店の路地向かいにガソリンスタンド。富士銀行板橋支店の重厚なビルを左手に見てすぐ、1964年(昭和39年)8月に完成した環七通り大和町陸橋をくぐる。板橋区発足前はここが志村と板橋町の境界であった。

環七の工事により富士銀行向かいの建具店は姿を消して、その位置は側道となり、右左折する車が電車に襲い掛かるように向かってくる。陸橋の南には1963年(昭和38年)落成の平和相互銀行板橋出張所。他の都市銀行が15時で窓口を閉めてしまうところ19時まで営業するとかで賑わっている様子。厚い硝子を整然とはめ込んだ、板橋区らしからぬ斬新な姿を見せる平和相互銀行ビルの前に設置された停留場に停車する。

☆巣鴨方面乗り場は移動した?

大和町は環七の整備により急速に発展した地域である。「日本鉄道旅行地図帳」のデータによれば、終戦前の1945年(昭和20年)に都電「富士見通」停留場が設置されたものの、すぐに廃止されて、戦後の1948年(昭和23年)から再開されたという。

環七通りこと東京都道318号線は、1930年代の板橋区発足時の地図で、既に現在の大和町交差点以東、十条・神谷方面が開通していたことが確認される。対して西側、常盤台方面の整備はかなり時代が下がり、都電運転時代の1963年(昭和38年)に開通している。東側の整備はおそらく中山道新道工事とセットで行われたと考えられる。

沿道の稲荷台から十条仲原にかけては軍用地で、重点施設が多数置かれていたために優先着工されたとみられる。志村の工場で生産された化学物質などの物資を載せたトラックはここで左折して、軍の施設まで運ばれていたであろう。交通上特に留意すべき交差点であったがゆえに、市電・都電の延長請願もすぐには取り上げてもらえなかったと推定される。

戦後、交差点の北東側角に富士銀行のビルができる。このビルは都電車両の窓から眺めていた記憶があり、幼い子供にも強く印象づけられる存在であった。今では銀行の屋上に上るなど考えられないが、昔はおおらかだった模様で、NHKの都電映像取材クルーも富士銀行ビルの屋上からカメラを向けた節がうかがえる。もし他の建物から撮影すれば必ず富士銀行ビルが映るはずだから、富士銀行そのものに上ったと見て差し支えない。

このビルはみずほ銀行に変わっても近年まで使い続けていて嬉しい限りであったが、残念ながら建て替えのため2015年に解体された。銀行自体は2017年に新しいビルに戻ってくるという。
大和町交差点北側を望む。右のフェンスが富士銀行板橋支店(改築中)。
志村橋方面乗り場はバスの渡る横断歩道先にあった。(2016年9月)
「昭和30年・40年代の板橋区」には、1962年(昭和37年)ごろに撮影されたとみられる、環七着工前の大和町交差点の写真が掲載されている。俯瞰アングルで、南側の平和相互銀行ビル建設現場からの撮影と推定される。富士銀行の向かい(西側)には「建具」と大きく記した看板を掲げる店舗が写っている。その奥、後年神戸銀行が使った土地には白壁の硝子工場がみられる。

いかにも昔ながらの街道筋風景のように見えるが、錯覚にはご用心、新道沿いだからいずれも昭和の建物である。建具店は環七の側道に変わり、硝子工場は第一勧業銀行を経て、現在は「YUMEパーク大和町」として整備されている土地に相当するだろう。
YUMEパーク大和町(左端)。硝子工場から銀行を経て公園となった。
(2016年5月)
富士銀行と建具店の間には、都電の安全地帯が巣鴨方面・志村橋方面平行して設置されていることがこの写真から確認できる。ところが、1964年(昭和39年)の環七大和町陸橋完成後に撮影された写真では、巣鴨方面乗り場の停留場標が環七の南側、平和相互銀行前(現在の地下鉄板橋本町駅A1出口前)に移されている。現在のセブンイレブンに相当する工具店前に安全地帯が設置されている写真も残されている。

一方、「都営交通100周年 都電写真集」49ページには平和相互銀行と対角線上の北西側からカメラを向けて、交差点を渡り近づいてくる志村橋行き電車を撮影した写真が掲載されている。志村橋方面乗り場の安全地帯停留場標が「富士見病院」の広告つきで、環七開通以前からの位置にあることが認められる。

「都営交通100周年 都電写真集」49ページ掲載写真
大和町交差点北西側から南東側を望む地点。(2016年7月)
以上より、大和町停留場は巣鴨方面乗り場のみが環七陸橋完成前後に、交差点北側から南側に移動したと考えられる。陸橋ができると側道から右左折してくる車が増えて安全上問題が生じたためとみられる。現在のバス停留所は池袋方面が交差点の北側(富士銀行前)、高島平・赤羽方面が交差点の南側(富士見病院前)に設置されていて、都電とは逆の配置になっている。


大和町停留所を発車する池20-2系統 池袋車庫発高島平操車場行き。
左のバイクの横付近に巣鴨方面乗り場が移設されたとみられる。
(2016年6月)
大和町交差点の都電写真は、さまざまな角度からの撮影が記録されている。設置当時は仮停留場に近い扱いが、いつしか南隣の板橋本町よりもにぎわいを見せるようになった。地下鉄の駅設置もそれをふまえたものだろう。

前述した通り、板橋区内で唯一運行を続けている都営バスである王78系統の降車専用停留所は、富士見街道へ向かう道の脇にひっそりと設置されている。志村営業所管轄時代、大和町止まりの便は大和町交差点を左折して中山道に向かっていたが、現在は大和町交差点でUターンできない上、新宿駅方面乗り場は陸橋合流地点のさらに東にあるため、おそらく姥ヶ橋あたりまで回送運転しているのだろう。


都営バス大和町停留所。(2016年9月)
☆平和相互銀行の最期は?

平和相互銀行板橋出張所のビルは、当時区内でひときわ斬新なデザインを持ち、人目を引いたようで、板橋区の高度成長期写真によく登場する。落成時は北側(環七沿い)に三角柱型の56階建て程度のビル、西側(中山道沿い)に正方形の厚い硝子タイルを多数埋め込んだ3階建て程度のビルが作られていたことが都電写真から確認できる。都電の乗客にアピールするのみならず、中山道と環七が軍需道路の影を払拭した象徴とも受け取られていたことだろう。

硝子張りのビルの位置は現在の地下鉄出口に相当するため、駅の工事が始まると早くも解体されたとみられる。5年にも満たない命だったかもしれない。一方、三角柱のビルはその後も長く使われ、私自身も王54系統のバスなどから見かけた覚えがある。しかし今回この企画を立てるにあたり、いつのまにかなくなっていたことに気がついた。

平和相互銀行は、ATMやオンライン決済など想像もつかなかった時代、法律の規定に従い午後3時でさっさと窓口を閉めて多くの企業勤労者の不興を買っていた有名都市銀行の間隙をつくかのように、「午後7時まで営業」をセールスポイントとして顧客を増やしていった。(創業社長が大蔵省に直談判して認めさせたと伝えられている。)「都営交通100周年 都電写真集」でも「窓口は午後7時まで」のネオンサインが大きく掲げられている模様がうかがえる。

ところが後年、創業社長が亡くなると内紛や乱脈融資などの問題が次々と発生してかなりの騒動を起こし、1986年(昭和61年)住友銀行に吸収合併されたという。(注:同銀行ではトップを「頭取」と称していなかったらしく、資料をあたる「社長」と記されている。)その際の店舗引き継ぎデータには、板橋出張所、もしくは支店の名前が入っていない。合併以前に閉店したとみられるものの、いつ大和町から撤退したかについては調べがつかなかった。

三角柱のビルは1985年(昭和60年)撮影の国土地理院写真で確認されるが、1990年撮影写真では既に解体されていることがわかる。その後民間のビルが建てられ、交差点角には2011年の駅エレベーター設置に伴い、小さな公園が整備された。都電末期から地下鉄初期の頃には大和町交差点の三方を銀行が占有していたが、50年後の生き残りは最も重厚な建物を構えていた旧富士銀行(みずほ銀行)のみとなったことに、諸行無常を改めて思う。
平和相互銀行板橋出張所跡付近。左端のビルが三角柱の建物、
地下鉄出口がすり硝子の建物の位置とみられる。(2016年6月)
☆「小豆沢町」とされた写真

あるホームページに18系統神田橋行き6106が自動車とともに信号待ちをしている様子を記録した俯瞰アングルの写真が掲載されていて、「小豆沢町・志村坂上間」と説明されている。”当時、小豆沢町近辺にはほとんど高い建物はなかった”という趣旨の解説文までご丁寧に添えられている。

右側(手前が巣鴨方面だから東側)には、当時の日本石油ガソリンスタンドと思われる給油装置や防火壁が見られ、小さな路地をはさみ、屋上の物干しで布団を干しているドライクリーニング店が写っている。左下(西側)の歩道には国道17号の標識と凸版印刷の広告が取り付けられた電柱。電車左側には志村橋方面乗り場と推定される安全地帯と軌道があり、接続する横断歩道を渡る人の姿がみられる。

電車の右側には車が寄り添うように止まっているため、巣鴨方面乗り場は少なくとも平行設置ではない。停留場標は建てられていないようで、代わりにKeep Leftの道路標識が設置されている。左側(西側)に分かれる道路はない模様。

私は最初この記述をそのまま信じて、ようやく小豆沢町の都電写真発見と喜び、50年後の姿を探ろうとした。小豆沢町・志村坂上間ならば志村一里塚、丸菱の看板、三菱銀行志村支店看板のいずれかが電車の右奥に写るはずであるため、小豆沢町・蓮沼町間ではないかと考えた。

そこで志村一里塚が視界に入らなくなる赤53系統のバス通りから蓮沼町停留所北のガソリンスタンド脇路地まで、中山道と交差する道路や路地を全て実際に歩いてみた。幾度も歩いて一応の候補を2ヶ所ほど考えたが、そのいずれもしっくり来ない、腑に落ちないところがある。

50年前は確かに、10階を越えるような高層マンションや大きな看板を持つ総合スーパー、ショッピングセンターなどはなかったであろう。しかし50年前でも警察などの官公署、信用金庫、凸版印刷、寺院などの建物や敷地は今と同じように写るはずである。古くからの民家や石材店などもフレームに入ることであろう。この50年間、空襲や災害などで町の基本骨格が変化したことはないのだから、路地の分岐形状も変わらないはずである。それらを勘案すると、50年前でも写っているはずの建物が、この写真にはどうも認められない。

中山道東側の、ある路地を一歩入ると、都電写真では認められないが昭和初期には既に建てられていたとみられる古い構えの民家があったり、別の路地でカメラを構えると、都電写真には含まれていない警察署の建物が入ったり、都電写真ではガソリンスタンドの位置にあたるはずの場所が南蔵院の敷地だったり、西側(前野町方面)へ向かう交差点があったり、警察署が入らないようにすれば凸版印刷の敷地や、都電当時から営業していたとみられる角の米穀店や、広い交差点が入ったり…。

そもそも、ほとんど高い建物がなかったはずの小豆沢町近辺で、どうすれば俯瞰アングルの写真を撮ることができるのだろう。現在は12階程度のマンションがある土地に、仮に50年前は4階くらいのビルが建てられていたとしても、その屋上から写せる構図は都電を斜め横から見る形になるはずで、これほど道路正面に近づくことはまず不可能だろう。

板橋区管理の歩道橋は1971年(昭和46年)東武の大山駅踏切上設置から始まると区の資料に明記されているため、都電の時代にはまだ歩道橋はできていない。国道だから建設省管轄の歩道橋がそれ以前に設置されていた可能性は排除できないものの、実際に上がってみてカメラを向けると、やはり角度が違う。

1週間以上幾度も幾度も写真を見直して、gooの航空写真サイトと照らし合わせて、それでもなおわからなかったが、お手上げ直前になって、左下の歩道脇に写っている黒い板の存在に気づいた。白い点のように文字らしきものが記されている。

はっと思い当たって拡大してみると、果たしてその板は都電の電柱用停留場標であった。カラー写真ならば赤で写るはずである。文字を解読できるまでの解像度は得られなかったものの、縦書きで3文字、その横に小さく縦書き4文字が記されていることが確認できた。

板橋区内の志村線でこの条件に合致する停留場は「大和町(富士見通)」のみである。「小豆沢町」は4文字だからそれだけでアウト。蓮沼町、清水町は副名称を持たない。

まさかの大和町…?

半信半疑でgoo航空写真サイトをもう一度確認したら、富士銀行がある一角の北に、ガソリンスタンドらしき空き地が記録されている。その先の路地の形は都電写真と一致。さらに、都電写真には電車の上方に交通情報掲示用の電光掲示板が設置されていることに気がついた。NHK取材の大和町映像でも、それらしき構造物がみられる。さらに左側にひしめく看板類を凝視すると、辛うじて「神戸銀行」らしき文字が読み取れた。

後日、国立公文書館で代替バス停留所予定図を閲覧したところ、大和町の項目には中山道東側の路地に面して「日石」の文字が記されていた。やった!

そのガソリンスタンドの位置には後年ビルが建てられているが、路地の形状は都電写真の通り。クリーニング店の場所は現在駐車場になっているが、その近くには今でも屋上に物干しのある家屋が残されていた。

<追記>1962年版住宅地図を参照したところ、ガソリンスタンドは本町36の日本石油富士見給油所、クリーニング店は志村清水町205(現在は本町35)の「遠昭舎」であることが確認された。問題の都電写真でもクリーニング店の看板は「遠昭舎」と読み取れる。小豆沢町停留場には安全地帯が設置されていなかった可能性が高いこともふまえて、この写真は断じて「小豆沢町・志村坂上間」ではなく、大和町停留場を撮影したものとして間違いない。遠昭舎はその後1980年代までは営業していたとみられる。

(注:遠昭舎は既に営業を終えていて、土地も駐車場に転用されているため関係者の居住もないはずで、歴史上の商店とみなして実名で記した。)

おそらく都電写真は、環七の陸橋から撮影したものであろう。高円寺陸橋から青梅街道を走る14系統を撮影した写真がいくつか残されているが、同じ要領で撮られたものとみられる。それならば電車正面に近い俯瞰アングルも可能だろう。現在は高速道路のみならず、環七も騒音対策として高いフェンスが設置されているため、同じアングルの撮影は不可能である。

もうひとつ解析を困難にした理由として、富士見病院の広告を掲示していた時計つき停留場標が見られなかったことがあげられる。この安全地帯は志村橋方面乗り場であるはずだから。しかしこの現象も、廃止にさきがけて撤去されたと考えれば矛盾しない。あるいは志村橋方面も、廃止が近づいた頃は環七から来る自動車との接触を避けるため、やや北よりに移動した可能性もある。

かなりの回り道を強いられたが、この経験私にとっては大きな収穫でもあった。

50年すぎて、高速道路に覆われていても、町や道路の基本骨格さえ変わらなければ立証可能であること。

・都電の軌道があった通り沿いは大きく姿を変えていても、一歩奥へと入れば往年の建物が残されている場合が結構あること。

・自分の目と足と手を使って納得がいかなければ、説明そのものから検証してみる姿勢を持つこと。

・町に密着している路面電車の写真解説は、できるだけその地域に暮らした経験を持つ人に任せるほうがよいこと。

そのホームページでは、当時志村線の写真を撮影された方からの委託を受けて掲載しているようだが、撮影者さんも制作者さんも地元の方ではない。撮影者さんは志村線の廃止を聞きつけて、いそいそと足を運ばれたと思われる。

制作者さんは当時まだ生まれていない世代の方と見受けられる。おそらく撮影者さんのお話をそのまま載せていて、撮った本人が言うのだから間違いなどあるはずはないと思い込んでいらっしゃるのだろう。しかし人間の思考過程においては勘違いや思い込み、バイアスはつきものである。長い間に記憶内容が変化することさえ日常的にある。それらを織り込んで真実にアプローチすることがいかに大変なものかを、改めて学んだ感がする。

制作者さんにかける言葉は

「あなたの故郷や思い出の深い路線について、間違いだらけの解説を載せられて、まるで取り合ってくださらなかったら、嫌な気持ちになりませんか?」

のひと言に尽きる。
それ以上は、あえて何も申し上げないこととしたい。

<追記>



その後坂下一丁目、志村三丁目、志村警察署前歩道橋にとりつけられた銘板に「196712月 建設省建造」と記されていることが確認された。1965年(昭和40年)発令の歩道橋指針により設置が決められ、志村地区の中山道には都電廃止翌年に作られている。ゆえに板橋区管理のものより先んじて中山道(国道17号)に架橋されているが、都電写真を歩道橋上から撮影した可能性は排除できる。

☆富士見通と根村道

1956年(昭和31年)に実施された地番整理により大和町が発足すると、都電の富士見通停留場も「大和町」に改められた。しかし「富士見通」は旧町名でなかったためか、その後も副名称として表示されていたことが、前述の「都営交通100周年 都電写真集」49ページ掲載写真の電柱停留場標から確認できる。

現在は板橋区の管理で「富士見街道」と名づけられている富士見通りは、板橋区内では中山道、川越街道に次いで長い歴史を持つ古道でもある。道から富士の姿が眺められるだけでなく、江戸時代伊勢参りなどとともに信仰を集めていた、富士浅間神社参詣へ向かう地域集団“富士講”が通る道という意味合いもあったと言われる。練馬方面に向かう道のため「練馬道」とも称されていたと伝えられている。

近代化前はもちろん旧中山道の上宿から直接分岐していたはずだが、昭和初期に中山道新道と現在の環七通りの中山道以東区間が整備されると、環七の交差点を起点とする道に変更された。この時代には沿道に中小の工場が数多く並び始めていたことも影響しているだろう。その頃、巣鴨から板橋宿を経て練馬まで走る路線バス事業を始めた「板橋乗合自動車」では、中山道から富士見通りに移る地点の停留所に「練馬横丁」と名づけている。当時の正式な交差点名はわからないが、富士見通り交差点、練馬街道交差点などの通称があったのではないかと考えられる。

大和町交差点西側。環七整備まで富士見通りの分岐点だった。
車が停車している側道はかつて建具店の敷地だった。(2016年9月)
環七通りの中山道西側が開通すると、富士見通り入口はさらに西に移り、中山道とは直接連絡しない形となった。現在、ガソリンスタンドが営業している富士見街道入口から環七の横断歩道を渡ると、ゴルフ用品店の脇に細い道があり、石神井川に向けて下り勾配となっている。この道は、皇室女王・内親王が将軍正室として江戸に輿入れする際に使う目的で建設された。
現在の富士見街道分岐点(富士見町)。
手前の道路が根村道。(2016年9月)
根村道。石神井川沿い(手前)から富士見街道に
向けて上り坂をなしている。(2016年9月)
板橋宿の街道脇には「縁切り榎」という有名な樹木がある。そこの前を通る人は必ず人間関係が切れるという根強い言い伝えがある。当初は婚儀や家族の縁を破壊するものとして忌む意味合いであったが、時代が下がると「縁切り」を逆手に取り、自分にとって都合の悪い、何かと災厄やストレスを及ぼしてくる悪縁を切る祈願としての意味も強まった。宿場町の常として、そこで働く女性には望まない縁ができてしまう事例が後を絶たなかったはずで、あいにくの境遇に置かれた人たちにとっては、かえって心強い榎であったことだろう。

今でも「縁を改める」ご利益スポットとして、かなり遠くから祈願に訪れる人もいる。人間関係のみならず、病気や不運、嫉妬や執着、依存症など自らのよろしくない性格との訣別にも効果があるとされている。

しかし、皇室から御台所を迎えるとあっては当初の意味を無視できない。万一何かあれば担当者の責任問題にも発展しかねない。徳川政権において、将軍と皇室女王・内親王の婚儀は三度記録されている。そのうちの最後、幕末の倒幕圧力が高まる中で「公武合体策」として強行された、徳川家茂将軍と和宮親子(かずのみやちかこ)内親王の事例が後年小説や映画などで頻繁に取り上げられているため、とりわけよく知られている。天皇の実妹であり、先例(天皇の孫ではあるが、親は皇位についていない宮家の出身)の二人とは格が違うという意味合いもあるだろう。

最初に徳川将軍家に輿入れした皇族は、それから100年以上さかのぼる1749年に徳川家治将軍正室となった五十宮倫子(いそのみやともこ)女王である。五十宮女王はその時数え12歳であった。

五十宮女王の中山道下向に際して、最後の板橋宿にある縁切り榎の存在が問題視された。担当者は思案の末、縁切り榎を通らない迂回路を普請するアイデアに到達する。それにより作られた「根村道」(ねむらみち)が、ゴルフ店脇の道である。この道は石神井川沿いの愛染通りにつきあたるまで続き、輿入れ行列はそこで左折して愛染通りから仲宿へ入ったという。

後年の楽宮喬子(さぎのみやたかこ)女王・和宮親子内親王も、根村道を通って板橋宿入りした。一時期「縁切り榎を菰で覆い隠した上で行列を通した」という俗説が広まり、地元の町会誌などでまことしやかに掲載されたこともあるが、それは板橋宿の名主飯田侃家で出した「不浄のものは覆い隠すべし」というお触れが、実際にその前を通ったと混同されたことが原因であり、現在では否定されている。

このエピソードを勘案すると、環七の旧中山道交差点(東京都民銀行の角)から現・富士見街道分岐点のガソリンスタンドまで、陸橋を含む区間は、かつて富士見通りであったのではないかと推定される。輿入れ行列は東京都民銀行の角で中山道から右折して富士見通りに入ったとみられる。根村道は富士見通りから左折する道で、近代化前は正面に田畑を望む三叉路、追分であったことだろう。記録には残されていないためあくまで想像だが、「右 ねりま ふぢ道 左 なか宿 ひらを」などと記された石標があったとしても不思議ではない。

幕府の都合で作られた根村道であるが、平常時には石神井川の水利を使い耕作を行う人々にとって貴重な道筋であったことだろう。このあたりには社寺も多く、古くから人の営みがあったことがうかがえる。

追記> 女王・内親王迂回路については、環七以北のルートに異説がある。王子方面からの「稲荷道」(清水町停留場付近)と旧中山道の交差点から右に分かれ、現在の大和町内の細い路地に相当するという。後述の、板橋駅前停留場で撮影された都電写真の場所特定で決め手となった個人ブログ「東京DOWNTOWN STREET 1980’s」では実際に歩いたレポートも掲載されている。

私見だが、そのルートが迂回路だったとするにはやや疑問がある。環七以南の根村道が相応にしっかりした道路として機能しているのに対して、この道はあまりにも細く曲がりくねっている。皇室の姫君にお通りいただくには粗末すぎ、数千人にもおよぶ人数で組まれたという行列の通行にも支障の出るレベルである。当人は幼くて、大人たちに言われるがままでも、気位の高いおつきのみやこ人たちは、「これやから徳川はんは」と、後々まで嫌味のネタにしかねない。

江戸時代このあたりは一面の田畑であったはずで、幕府が道普請を行うならば根村道と同様に直線に近いルートを、行列がスムーズに通れるように選定したことだろう。明治以降もその道に沿って家屋が建てられ、板橋宿大火後に移り住む人が増えて、工業化の時代を迎えると志村方面から富士見通りへのバイパスとして、物流に機能しただろう。(前野町見次公園付近の谷地形が深いことを想起してほしい。迂回路でも、勾配の少ない道は重宝したはずである。)

しかし史実はそうなっていない。おそらく大和町北部の細かい道は、往年の畑のあぜ道をそのまま道路にしたものではないだろうか。

現地を歩いてみたら敷地が数十センチ程度張り出している家もあり、クランクとまではいえないものの、左右に細かな凸凹がみられる道であった。これは畑地時代の地主による境界線がそのまま残されているものと推定される。すなわち幕府による普請は行われていないと考えられる。

さらに大正時代の国土地理院地形図を参照したところ、該当する道は旧中山道に直結していなかった。宮さま輿入れの際に普請したのならば、狭いながらも直結道がそのまま残されていたであろう。

申し訳ない結論になるが、ブログで紹介された道筋ではないと考えられる。1819世紀の人には想像さえつかなかった自動車道路の南北で道路の状態が分かれること自体が不自然であろう。

縁切榎脇に立てられた板橋区教育委員会の説明板では、環七(練馬道、富士見街道)→根村道→日曜寺→愛染通りのルートとされている。このほうがはるかにリーズナブルに説明できると思われる。

☆榎の実(えのみ)散り東武電車の夢の跡

富士見通り沿いには、東武鉄道が西新井と上板橋の間を連絡する「西板線」構想を立てていた。1924年(大正13年)に免許も下付されているが、関東大震災後の復旧に経費がかさみ、時間の経過とともに家屋や工場が増えて用地確保がままならなくなり、1932年(昭和7年)に起業廃止している。

この地域では「板橋上宿」駅の設置を計画していたそうで、おそらく現在の本町北端、清水町との境界あたりの旧道に接して、現在の東武練馬駅のようなホームを作る構想だったのではないかと想像する。西板線計画は中山道の新道整備よりも先であり、完成していれば新道工事や市電・都電の延長にも影響が及んだことであろう。この話題は別項で改めて述べたい。
(注)タイトルの「榎の実」は秋の季語である。



☆停留場データ

開設日:1945年ごろ? ※新聞報道では富士見通のみ掲載されていない。
一旦廃止日:1945年ごろ?
復活日:1949年(昭和24年)315
旧名称:富士見通(改称後副名称として表示)
改称日:1956年ごろ ※同年41日の地番整理による「大和町」発足後
設置場所:<巣鴨方面・移設前>板橋区本町36付近(現在も同じ)
<巣鴨方面・移設後>板橋区本町37付近(現在も同じ) 
<志村橋方面>板橋区大和町18付近(現在も同じ)
1963年から1965年にかけての間に、巣鴨方面のみが富士銀行板橋支店前から環七通り南側の平和相互銀行板橋出張所前(現在の板橋本町駅A1出口付近)へ移設されたとみられる。
志村橋からの距離:営業キロ3.8、実測キロ3.782
停留場形式:1963年ごろは安全地帯平行設置、廃止直前は交差点の南北に設置
停留場標:(志村橋方面)時計つき電飾型

☆本停留場付近で撮影された写真が見られるメディア

(1) 書籍「昭和30年・40年代の板橋区」44ページ
車両番号不明2両 富士銀行板橋支店・建具店(現・環七通り側道)

(2) 同書 47ページ
車両番号不明2両 平和相互銀行板橋出張所(現・板橋本町駅出口)

(3) 同書 47ページ
書籍「目で見る練馬・板橋の100年」 109ページ
41系統志村橋行き 6118ほか80001 平和相互銀行ビル建設中
※上記2枚は同一写真。「目で見る練馬・板橋の100年」は説明文に誤記あり。(地下鉄本蓮沼駅付近と記されている)

(4)書籍「都営交通100周年 都電写真集」49ページ
41系統志村橋行き6290 環七陸橋完成、停留場標に「富士見通」併記

(5)書籍「板橋区の昭和」128ページ
18系統神田橋行き6006 環七陸橋北側

(6)同書 128ページ
41系統志村橋行き6009 停留場停車中、環七からの左折車 

(7) 個人ホームページ 41系統志村橋行き 車両番号不明ほか1
環七陸橋完成
※説明文に誤記あり

(8) 個人ホームページ 41系統志村橋行き6005 巣鴨方面乗り場平和相互銀行前移設後
※説明文に誤記あり

(9) 個人ホームページ 18系統神田橋行き6106ほか1
※説明文に誤記あり(小豆沢町・志村坂上間と勘違いなされている)

(10) NHKクリエーティブ映像「消えゆく路面電車 志村線」1965年撮影
18系統神田橋行き4061
神戸銀行板橋支店前41系統志村橋行き7000形ほか3