2016年11月14日月曜日

志村線謎の写真

本ブログを執筆するにあたり、多くの志村線電車走行写真について細部にわたり観察して、車内撮影やお客さんの乗降の様子をクローズアップした写真以外は、撮影された場所をほぼつきとめることができました。実際に50年後のその場所を訪ねて確認した経緯については、各停留場の50年後の姿の記事でも既に紹介しています。その一方で最後までわからなかった、あるいはおおよその見当はつくものの確証までは持てなかった写真がいくつかあります。

1)旧塗色4063とオートバイ

「昭和30年・40年代の板橋区」44ページに掲載されている写真で、板橋区立公文書館ホームページにも掲載されています。「志村橋」の幕を掲示した旧塗色(濃緑色とクリーム色)の4063が、ある停留場に停車していて乗客が安全地帯に降りる横をオートバイが通過していく構図です。ある個人ブログに、廃止が近づいた頃に志村橋で撮影した4063の写真が掲載されているだけに、ひときわ印象的です。

書籍ではこの写真について「昭和29年」と記していて、公文書館でも同様の記録で保管しています。41系統のツボ型系統板ですから、昭和29年のはずはありません。おそらくこの写真を板橋区に提供した方の記憶違いによる誤りでしょうが、「昭和30年ごろ」が正当です。

さて、この写真はどこで撮影されたものでしょう?
私は最初、志村坂下ではないかと考えていました。当時貴重だったフィルムを使うのならば、新規開通区間を記念して、と思い立つほうがより自然だからです。ところが東京都立図書館に所蔵されている区立小学校教材「わたしたちの板橋 平成22年度版」を何気なく見ていたら、この写真が「板橋地区」、すなわち板橋区役所前付近の昔の姿を示す資料として使われていることに気づきました。

板橋区教育委員会は、正確な場所を伝え聞いているのでしょうか。もし事実と異なるならば問題になりかねません。

この写真では、電車の右側に安全地帯があります。電車から見れば左側です。よく見ると、背後に写る商店らしき家屋との間に、もう1本軌道があります。この電車は右奥方向から左手前方向に走行していて、左側が志村橋方面、右側が巣鴨方面と推定できます。巣鴨行き乗り場は平行して設置されていないこともうかがえます。

ここでしばらく推理が止まっていましたが、板橋区役所前2016の記事で取り上げた「東都自転車」前の写真と、安全地帯のたたずまいがよく似ていることに気がつきました。さらに観察すると、電車右奥の家屋の屋根が東都自転車前の写真の右奥の家と似ています。それならばこの停留場は板橋区役所前の志村橋方面乗り場で、「わたしたちの板橋」の記述は正しく、私の最初の直感が間違えていたことになります。

2)逆S字カーブで坂を下る軌道?

1995年に出版された「志村警察署史 創立50周年記念」には、志村線最終営業日の装飾電車の写真が掲載されています。志村橋行きで、坂を下るように見えます。説明は「志村三丁目付近」。すなわち志村坂下停留場近辺ということです。旧板橋町地区とは背後に写っている建物の気配が何となく異なる感じはしますが、左上から右下にかけて、軌道が逆S字カーブを描くように写し出されている点が不思議です。志村坂の軌道は一直線で、坂下から写真を撮っても曲がって写ることはないものと考えられます。それに当時、志村坂下近辺で俯瞰するアングルの撮影ができるビルは建てられていたでしょうか。この写真の撮影場所は結局わかりませんでした。

(3)社会科副教材掲載の安全地帯

板橋区教育委員会が1974年に制作、1975年に改訂版を発行した学校教育用副教材

「板橋 身近な地域を知るために」

は、板橋五丁目停留場の記事で述べたように、事実関係の誤りや誤字誤植がてんこ盛りで、当時の子供へ与えた影響が危惧されるレベルです。

もっとも、人をいじめたり暴力をふるったり、陰口をたたいたり、嫌がらせをしたりなどの行為にしか関心の向かない生徒は、そもそもこの本を試験に出る部分以外は読みませんから、かえって被害が及ばないでしょう。この分野に関心を持ち、まじめに勉強している生徒、すなわち1975年時点で未来の板橋区を支えてくれるかもしれない層こそがこの本の”被害者”になりえます。

その121ページに、他の資料では確認できない都電写真が掲載されています。

「廃止が近づいたころの都電」なるキャプションがついていますが、旧塗色の7000形で、「昭和30年代はじめごろの都電」の誤りであることは一目瞭然です。

昔の本で、印刷ドットも粗いのですが、18系統巣鴨行きとみられます。
安全地帯が写っていて、志村橋方面と巣鴨方面でずらして設置されています。
架線はトロリ線1本のみです。

では、撮影地はどこでしょう。
トロリ線のみの区間ですから、志村坂上-志村橋間、および板橋駅前はまず除外できます。
これまでの調査で、小豆沢町、蓮沼町、板橋五丁目には安全地帯がもともとなかったとみられます。

安全地帯が確認されている停留場のうち、大和町、板橋本町、板橋区役所前は、他の写真とは道路や建物の様子がこの写真とは異なっています。

消去法で、まだ写真を確認できていない清水町もしくは仲宿でしょうか。
それとも滝野川五丁目より巣鴨方、すなわち板橋区外で撮影された写真を引用してきたのでしょうか。

4あの会社や金融機関が中山道にあった時代

★ 金融機関編

「昭和30年・40年代の板橋区」46ページには、撮影者さんが立つ歩道(写真右側)の並木の横、写真の右端に「東京労働金庫」の看板が掲げられている構図の都電走行写真が掲載されています。1963年(昭和38年)に撮影されたということです。中山道をはさんで写真の左側にも小さな林が写っています。

現在「東京労働金庫」は他の首都圏労働金庫を合併して「中央労働金庫」に改称されています。板橋支店は大和町にありますが、富士見街道が環七通りから分岐する地点で、中山道沿いではありません。国会図書館で東都自転車について電話帳で調べた際に、この件についても確認してみましたが、1965年(昭和40年)末時点で既に現在の場所で営業していました。それ以前の電話帳は確認できないため、推測はここで止まりました。

一方、この写真の隣には左側の林を背景にして電車が続けさまに走ってくる写真が掲載されています。さらに板橋区立公文書館には、同じような林の前を巣鴨方面に走る6010の写真が紹介されています。これら「三枚の写真」は、松本隆さんの詞のように”16の頃、あなたは18”から”二十歳の私、あなたは22”になるまで何年も時間をおかず、同じ日に同じ場所で撮影されたようにみえます。

確証は持てないものの、石神井川の南、氷川神社のあたりがこの条件に最もよく合致するのではないかと考えました。現地に出かけてみると中山道の東側(志村橋方面に向かって右側)に「板橋産連会館」の看板を掲げたビルがみつかりました。いかにも1970年代の顔つきをしています。板橋産業連合会について調べてみると、戦時中の1941年(昭和16年)に産業報国会として当地に設立されて、戦後は1946年(昭和21年)に「板橋産業協議会」に改称、建物は「板橋労働会館」としています。板橋労働基準監督署は1947年(昭和22年)にこの建物を使って開署していて、労働界との関わりも深かったことがうかがえます。1954年(昭和29年)に「板橋産業連合」と再度改称、ビルは1956年(昭和31年)と1972年(昭和47年)に改築されていました。現在のビルがいかにも1970年代という直感は当たっていました。

東京労働金庫がこの物件を使用していたという記録はあいにくありませんが、労働界に縁のある建物ゆえ、常設的な営業はなかったとしても、大和町のビルを改築する際一時的に移転していた可能性はありえます。1963年(昭和38年)に環七通りが完成するまでは中山道沿いにあったと考えても、1965年末の電話帳で現住所になっている事実とは矛盾しません。写真の電車右側には、軌道がへこんでいる様子が映し出されています。その場所が石神井川の新板橋と考えることもできます。以上より「東京労働金庫」の看板は、旧板橋産連ビルに掲げられていたものと考えています。撮影者さんは停留場でいえば板橋本町と仲宿の中間あたりでカメラを構えていたのでしょう

その後、「板橋ハ晴天ナリ。」ブログ作者さんからのご教示により住宅地図を参照したところ、1962年版・1965年版とも板橋産業連合旧ビル北隣(仲宿54)に「東京労働金庫板橋出張所」の記載が確認できました。おそらく1965春から秋までの間に仲宿から大和町移転したと考えられます。
 
★ 自動車整備店編

「わが街わが都電」の車両形式解説のページには、志村線内で撮影された18系統の写真が、さりげなく2枚掲載されています。176ページ掲載6143の写真左には木工挽物店の看板が写っています。調べてみたところ西巣鴨の明治通りに面した住所が得られました。おそらく写真は西巣鴨停留場の可能性が高く、後年移転したとみられます。ただし、最近閉店した気配もうかがえました。

一方、177ページ掲載のZパンタ搭載7087の写真では、背後に「幸伸興業」と記したビルが認められます。電車の左側には「ラビリンス」と記された看板を持つ店舗、さらにその隣には出光ガソリンスタンドの丸い看板が認められました。18系統巣鴨行きのため、これらの建物は中山道巣鴨方面の左側(北区寄り)にあったと考えられます。

幸伸興業は現在、池袋近くの川越街道沿いでガソリンスタンド、埼玉県戸田市笹目で自動車整備工場とガソリンスタンドを営業しています。本社は池袋ですが、昭和32年(1957年)10月設立と記されているため、以前は中山道沿いに店舗を持っていたとしても矛盾はありません。1965年の電話帳には「板橋1丁目(番地省略)」と記されていました。

しかし板橋一丁目は板橋駅付近一帯で、中山道の電車通りから離れた地域です。これは地番整理前後で変わりません。巣鴨行き電車写真の右側(電車から見て左側)が板橋一丁目ということはありえません。今のところ本社オフィスが板橋一丁目で、実際に車を扱う事業所は中山道沿いにあったのではないかと考えています。電車右側には「吉川自動車」という看板も写っていますが、この店舗については電話帳調査で失念してしまいました。

一方、その時代で「ラビリンス」といった看板を掲げる店舗といえば、お酒をはじめ相応のサービスを提供する夜の商売である可能性が最も高そうです。一般の人が歌うカラオケテープなどはまだできていない時代ですが、その当時(1960年=昭和35年ごろと推定)ならではの盛り上がりがあったのでしょう。さらに、この種のお店があるということから、住宅地や工場地帯に面した地域の停留場の可能性は低いと推定されます。

そのあたりのことを考えつつ「東京都電風土記」を見ていたら、板橋駅前停留場で野尻さんが1963年(昭和38年)に撮影した写真で、背後に出光のガソリンスタンド看板と、幸伸興業ビルに類似しているようにもみえる建造物の一団が認められることに気がつきました。小さい写真で、かなり奥のほうに写っているため正確に同じとまでは結論づけられません。野尻さん撮影の写真では、スバルの自動車販売ショールームビルが出光の隣に写っています。一見異なるようですが、ラビリンスが入居していた物件が取り壊されて、その後にショールームができたとすれば説明は可能です。板橋駅前停留場ならば、板橋駅付近の旧道沿いほどのにぎわいはなかったにせよ、夜の商売のお店が表の電車通りに面してできていたとしても不思議ではありません。

以上より7087の形式写真は塗色変更間もない1959年~1960年(昭和3435年)ごろに、板橋駅前停留場で撮影されたものではないかと考えました。写真にはシンプルカテナリーが写っていて、三菱銀行板橋支店前~板橋駅前~西巣鴨間で撮影された可能性が高く、矛盾しません。

…と考察したところで「滝野川ガスホルダー」を検索したら、大和町停留場の記事でも紹介した「東京DOWN TOWN STREET 1980’s」という個人ブログを見つけました。1980年代初頭に撮影された地下鉄新板橋駅付近の中山道の姿が記録されています。電車通りのロードベイは既になく、高速道路工事が始まる前の広々とした道路です。その文章の中に吉川自動車に関する記述があり、紹介されていた写真はまさしく都電7087を撮影した場所を示していました。出光のガソリンスタンドは、1980年代には日石に交替していた模様です。「ラビリンス」の看板があった場所には、三菱自動車の販売店が写っていました。板橋四丁目8番地付近、現在は駐車場と紳士服量販店が建てられています。

以上より、板橋駅前停留場北側の変遷は

出光石油ガソリンスタンド→日本石油ガソリンスタンド→紳士服量販店

ラビリンス→スバル(富士重工)ショールーム→三菱自動車販売店→同上

吉川自動車→駐車場

と結論づけられます。
「わが街わが都電」掲載 7000形説明用18系統巣鴨行き電車の
撮影推定場所付近。歩道まで張り出す橋脚脇のビルあたりに、
かつて自動車販売店があったと思われる。(2016年9月)