2016年10月16日日曜日

「風街ろまん」の今 -港区霞町・笄町探訪-

はっぴいえんど「風街ろまん」LPジャケット内面。(イラスト:宮谷一彦、URCレコード、1971年)

この章では志村線以外話題についていくか取り上げましょう

☆モデル写真は存在するのか?

1970年にデビューした音楽バンド「はっぴいえんど」は、メンバー各人の解散後の活躍が目覚ましいこともあって、「日本語のロックを確立した」と、斯界では神様的な崇められ方をされています。松本隆さんはとりわけバンドに対する思い入れが深く、今でも何かにつけて「自分の作品は、全てはっぴいえんどにつながる。」とおっしゃっています。

ここでは音楽的なことや、メンバーのプロフィールについては割愛します。山ほど情報が出ておりますゆえ、お任せいたします。

19718月(都電史でいえば文京区や通三丁目の路線がなくなり、城東の一角と荒川地区に押し込められてしまった時期)に発表されたセカンドアルバム

「風街(かぜまち)ろまん」

には、ジャケット内面に6系統7520新橋行きと、6154渋谷駅行きのイラストが描かれています。6154の幕の文字はぼかしてありますが、おそらく「霞町 渋谷駅」と推定されます。J.Wally Higginsさん著の「発掘カラー写真 昭和30年代鉄道原風景 路面電車編」(JTB2005年)40ページにはその幕を掲示した7503のカラー写真が掲載されています。イラスト作者は宮谷一彦さん。

右側の新橋行き7520に運転士の姿が見えるため、手前が新橋方向、奥が渋谷駅方向です。おそらく麻布の霞町停留場付近で、新橋行きは高樹町(たかぎちょう)から笄(こうがい)坂を下って停留場に着くところでしょう。よく見れば、右端には安全地帯標識併用型の停留場標らしき板が描かれています。「東京都電風土記」70ページ掲載の霞町停留場写真には、このタイプの停留場標が確かに写っています。

このイラストには、モデルとなった写真がどこかにあるのでしょうか。
描いた時点で既にこの路線は姿を消していますし、車両の細部にわたるまで精緻に描かれていますから、写真から起こしたとみるほうが妥当でしょう。

「都電系統案内」10ページには、よく似た構図の写真が掲載されています。
右端の電柱には「宮城産婦人科」の広告が認められ、イラストと一致しています。

一方この写真では左側の軌道を走る6207が新橋行きで、イラストとは逆向きになっています。イラストは笄坂の下から見上げる構図、写真は坂上から霞町停留場にカメラを向けたアングルで、交差する7系統の電車も収めています。

イラストでは左上、渋谷方面の軌道脇に芝生帯が描かれていますが、「都電系統案内」の写真では同じ芝生帯とみられるスペースが新橋方面の軌道脇にあります。

「都電風土記」の写真でも、空きスペースは新橋方面の軌道側にあり、渋谷方面の軌道側には家屋が建ち並んでいます。

果たして、モデル写真をそのままイラストにしたのでしょうか。
それとも脚色を入れて、新橋行きと渋谷駅行きをあえて逆に描いているのでしょうか。

もし逆だとすればこの絵は霞町から高樹町方面ではなく、霞町から材木町方面の霞坂で、奥が新橋方、手前が渋谷方で、「都電系統案内」の写真撮影地よりさらに霞町交差点まで下た地点から見た風景ということになります。イラストの右上側にあるビルの手前が写真の空き地とも考えられますが、写真の6207の影には停留場の安全地帯が隠れているようで、イラストの坂の位置と一致しません。

あるいは霞町停留場から高樹町方面の笄坂は実際のままで、左右の構造物を入れ替えて描いているのでしょうか。

現地に行って確かめようにも、それこそ高速道路が蓋をしていて、当時の路上構造物は全て撤去されているため、まず検証できないでしょう。

だからこその「風街」=既に失われたが、人の心の中にある記憶の街=なのですが。

このイラストの謎は、志村の田舎者の手には負えません。当時現地で暮らしていて、写真を撮影していた人でないとわからないでしょう。

…と書きましたが、せっかくの機会ですからもう少し調べてみましょう。

☆現時点での結論は…

Goo航空写真サイト(1963年版)を見ると、芝生帯は霞町交差点の北西側、すなわち渋谷方面から新橋方面に向かう笄坂軌道の脇に作られていたことが確認できました。新橋方面乗り場安全地帯は、この芝生に隣接していたのでしょう。

渋谷方面に向かう軌道(南西側)の脇には車道をはさみ、「東京都電風土記」の写真でも記録されている古い家並みが写っています。軌道はこの坂道をゆるくカーブしつつ谷間に下りていく構造を取っていました。

以上を勘案すると、このイラストの電車と軌道の形状は19621963年(昭和3738年)ごろの実態を正確に描写していると思われます。霞町交差点上、広尾線(7系統)とのクロス地点付近に立ち、霞町線(6系統)の高樹町・渋谷方面への笄坂を見上げるアングルで、ほぼ間違いないでしょう。
 
7500形は当時の最新鋭車で、ようやく都電にもスマートな新車ができたと、野尻さんなども喜んでいた頃に相当します。

一方で、背後の風景には脚色がある模様です。
本来は古い家並みが続いていて、狭く見通しもあまり効かなかったはずの左側を広い空き地として、新橋方面軌道右脇にあるはずの芝生を左側に描いています。おそらくは電車を際立たせる描写を狙ったものでしょう。

宮城産婦人科の電柱広告も、坂下側から見れば「都電系統案内」の写真とは逆の画面左側に来るはずですが、あえて右側に描いて「都電系統案内」の坂上からの写真と同じポジションに置いています。

右奥のビルの位置は、goo航空写真でもやや大きな建造物が写っている場所があるため、あるいはそのまま描いているのかもしれません。

「都電の消えた街 山手編」47ページには、諸河さんがさらに笄坂を上り、坂上に近い位置から霞町の谷間を遠望した写真が掲載されています。

ここまで登ると、6系統6167の彼方に東京タワーがかすんで見えています。
まさに霞町。

この写真を見ると、松本さんがユーミンこと荒井由実(→松任谷由実)さんと初めてコンビを組んで1975年に作った作品、「袋小路」のイントロのピアノがどこからともなく聞こえてきそうです。松本さん会心の作品のひとつで、今でもたまにかかることがあります。

モデルになった店は笄町ではなく、慶應義塾に近い三田の、電車通りから一歩奥に入った小さな坂道沿いと思われますが、「アイビーごしにタワーが見えた」のですよね。

「風街ろまん」の絵には東京タワーの遠望が描かれていませんから、その点からもタワーを背にした笄坂の風景と推定できます。

林さんが霞町で都電写真を撮影した頃(1967年はじめ)には既に高速道路の建設工事が始まっていて、コンクリートに絡め取られたような写真を残しています。(この写真でも、宮城産婦人科の電柱はまだ残されていました。)林さんのお考えからみて、東京の街並みと伝統を破壊する建造物の野放図な工事に対する無言の抗議の意味で、あえて哀れな姿を撮影なされていたのでしょう。もう少し前に足をお運びいただいていたら…と、改めて惜しいところでした。     

☆ディレクターの心遣い

松本さんはこのアルバムを出す際、「都電の絵を表にしてほしい」と頼んだものの、ディレクターに駄目と言われたと述懐されています。

私が思うに、ディレクターさんは大瀧詠一さんの立場を気遣ったのではないでしょうか。

白金に住んでいて、清正公前が最寄りだったという細野晴臣さんや、世田谷生まれで

「三丁目の夕日の“鈴木モータース”は、うちがモデルです!」

と言って笑いを取る鈴木茂さんにとって、都電は幼い頃から身近な乗り物だったことでしょう。松本さんの描く世界観もすぐにイメージできたと思われます。

しかし、岩手県出身の大瀧さんにとってはどうでしょう。上京した頃には確かにあったけれども、それほどにありがたいものなのかな、が正直なところではないでしょうか。東京で生まれ育った連中が「都市」を斜から見るように歌うバンドに、自分がいてよいのだろうかとも思いかねません。ディレクターさんはそのあたりのことまで、きちんと見ていたと思われます。

後年、はっぴいえんどに影響を受けて音楽を始めたというあるミュージシャンが「風街ろまん」のレコードにサインをもらおうとしたところ、細野さん、松本さん、鈴木さんはその場で快諾したものの、大瀧さんははぐらかすような理由をつけて幾度も先延ばしにしたそうです。最終的にはサインしたということですが、やはりバンドに対する温度差があったと感じられるエピソードです。

20187月追記>

タレントの清水ミチコさんのブログで、大瀧さん・細野さん・鈴木さん三人のサイン入り「風街ろまん」LPレコードの写真が掲載されていました。大瀧さんは「お前、こんなものを持っているのか。」と言いつつも、喜んで最初にサインしたといいます。

大瀧さんが永眠された後に開かれた、松本さんの作品を歌うコンサート「風街レジェンド」(2015年)では、大瀧さんの曲が多数演奏された一方、最後のアンコールでは東京国際フォーラムの大きなスクリーンいっぱいに、この都電イラストが映し出されました。

おそらく都電好きな人はほとんど目にできなかったであろう「幻の6系統」の姿でした。


☆「九月の雨」の霞町

その昔、九月に降る雨は主に大陸側からの高気圧の縁を回る北東気流により生じる秋雨前線がもたらすもので、気温がぐっと下がり肌寒く、否応なしに「夏の終わり」を肌に感じるものでした。だからこそ松本さん作詞のあの歌もヒットしたのでしょう。

しかし昨今の「九月の雨」は、台風や熱帯低気圧が前線を刺激して、南方から湿気を多量に含む空気を容赦なく運ぶことによりもたらされるものであるため、あまり冷たくありません。それどころかいつまでもぐだぐだ蒸し暑く、歌になりそうにもありません。

それでも一応「九月の雨」の降る日に、霞町停留所跡付近を探訪しました。
この一帯は笄川(現在は暗渠)に沿って南北に延びる谷地形沿い、東西両方向の斜面にできた街です。戦後六本木、渋谷の急速な発展により、運命が大きく変わりました。


「風街ろまん」ジャケットイラストのモデル地点付近。
(左の駐車場内のやや奥、急坂がはじまる位置が定点と推定される。)
赤茶色道路の右折車用矢印近辺が霞町停留場新橋方面乗り場と思われる。 

笄坂を見上げるアングルはご覧の通り。これ以上申し上げることはございません。
「東京都電風土記」70ページ掲載写真(1962年撮影)は、この場所から左方向を撮影したと思われます。

廃止が近づいた頃に撮影された、高速道路工事中の写真では現在の駐車場の土地に相当する位置に敷かれた軌道を走行する場面が記録されています。一方、林順信さんの写真(「都電が走った街今昔」47ページ掲載 19671月撮影)では左右の歩道近くに仮軌道が設置されています。
この写真には「日本バーテンダー(協会?学校?)」の看板が写っていますが、現在その場所近くで営業しているお店には

「怖い店員や、頑固なバーテンダーがやっているお店ではありません。
安心してお入りください。」

と宣伝してあり、噴き出しそうになりました。


♪September Rain Rain…
あまり冷たくない「九月の雨」が降る停留所。
都電の頃よりもかなり坂を上った地点に設置されている。
都電第6系統のルートをほぼそのまま走る新橋駅-渋谷駅間の都営バス、都01系統は本数が多く、結構頻繁にやってきます。ただし高樹町(→南青山七丁目)-渋谷駅間は1984年(昭和59年)3月に、都電以来の青山車庫(骨董通り)経由から六本木通り経由に変更されて、旧ルートは渋88に振り替えられました。この系統も新橋駅行きですが、新橋側で都電とは異なるコースを走行しているため、厳密には渋谷駅-渋88-高樹町-都01-新橋駅6系統の後継です。

6系統には渋谷方から虎ノ門折り返し便が設定されていたそうです。(「東京・市電と街並み」による)確認は取れていませんが、新橋方から青山車庫入庫便もあったでしょうか。それに対してバスは赤坂アークヒルズ、六本木ヒルズができると各々折り返し便を設定しているあたりに時代が反映されています。


笄坂を登れば高樹町。私は現地に行くまで「たかぎまち」と読んでいました。
振り返ると東京タワーが高層ビルの陰に埋もれかけた格好で辛うじて見えます。
六本木ヒルズのほうが近いため、はるかに圧倒しています。

「都電の消えた街 山手編」掲載写真撮影地点は、同書で諸河さんが推定した位置(駐車場の坂道)よりも、もう少し坂上寄りかと思いました。


「都電の消えた街 山手編」47ページ掲載写真(1965年)撮影地付近。
中央のビル左、高速道路入口ブルーの看板脇にタワーが見える。
視界を遮るこれらの建造物を御掃除できる時代はやってくるだろうか。
本ブログでは「小石川掃除町」について紹介しましたが、江戸切絵図(尾張屋板)の「青山渋谷全図」によれば、この一帯も江戸時代は掃除町(渋谷御掃除町)だったそうです。増上寺霊廟掃除係屋敷で、小石川より36年後の1709年に幕府から拝領されたと伝えられています。切絵図では後年の麻布笄町と赤坂青山高樹町内の3ヶ所程度に分かれて御掃除町があったと記されています。

掃除町はもう1ヶ所、青山御掃除町がありました。江戸城内掃除役屋敷で、後に赤坂台町を経て現在は赤坂七丁目となっています。

笄町には、表通りから1本奥に入ると古くからの街並みの路地が残されています。


麻布笄町の坂道。表通りの笄坂は写真の左側。
意外な広告も残されていました。


局番が3桁、京浜川崎・京浜久里浜と記されていることから、
昭和最終期制作と推定される。
道路にも暗渠化の跡が遺されています。


左側の道が旧笄川、右側の道は当時の川辺。
前述した通り、霞町の交差点では7系統が使用していた広尾線と交差します。野尻さんや諸河さんの写真では、墓地下近辺に専用軌道があり、いかにも戦後を思わせる風景が1960年代半ば(昭和40年ごろ)まで見られたことが窺えます。

この電車道を舗装道路として、さらに拡張を行ってできた道が「外苑西通り」(東京都道418号北品川四谷線)です。現在でも都営バス 品97系統が都電7系統と同じコースで運転されています。品川駅前停留所の乗り場は偶然にも「7番」で、知っている人は感心することでしょう。
「わが街わが都電」92~93ページ掲載写真(1957年ごろ)撮影地付近。
当時の商店は車が並ぶ位置よりもさらに手前の路上に相当するとみられる。

2019年5月追記

その後、松本隆さんがtwitter上でお話されたことや、新たに発表されたインタビュー記事などにより、「風をあつめて」のモデルは霞町ではないことが判明しました。それに伴い本稿の記述の一部を改めました。

「松本隆さんの証言と都電の歴史」の記事もご覧ください。


※本稿の写真は全て20169月撮影。