2016年11月15日火曜日

志村線定説を検証する(4)乗客は減っていなかった?

志村線の早期廃止に関しては、「都電の中でも優良路線で、乗客も多かったが、それゆえに地下鉄を優先着工することになり廃止された。」という説明をよく見かけます。イカロス出版より発行された「懐かしい風景で振り返る東京都電」掲載の「東京の路面電車慨史」および「都電の100年 Since1911」掲載の「都電100年のあゆみ」でも「志村線の乗客は減っていないため、ややかわいそうなケースだった。東京で地下鉄の建設を明確な廃止理由とされた都電路線は志村線のみである。」といった記述をしています。

そのように見てくださることはとてもありがたいのですが、さて実際の数字ではどのような状況だったでしょう。

国立公文書館で公開している運輸省提出廃止申請届付属資料には、1960年(昭和35年)から1964年(昭和39年)まで5年間の輸送実績表も含まれています。1960年、1964年は都電全線で行われた乗客数調査に基づく数値、他の年は巣鴨電車営業所独自の調査結果とみられます。そこに記録されている数値をもとにして、41系統、18系統志村線内、18系統巣鴨以南の一日乗客数の変遷をグラフにしました。

都電18系統・41系統 一日乗客数
(国立公文書館所蔵 運輸省提出軌道廃止届添付資料表の数値に基づき制作)

ご覧のとおり、やや微妙な結果です。
1961年(昭和36年)は前年とほとんど変わりありませんが、1962年(昭和37年)から下がりはじめています。とりわけ18系統志村線内が乗客を減らしています。運転本数も年ごとに減少傾向で、最後の年は1960年の7割程度にまで減便されていました。

1964年(昭和39年)11月の乗客数調査表では、志村橋から巣鴨車庫前の全停留場について停留場ごとの一日乗車・降車人数、停留場間通過人数が記録されています。

通過人数とは、停留場A→停留場B→停留場Cと進む場合、停留場A以前から停留場Bまで乗ってきた人数に、停留場Bの乗車人数を加え、降車人数を引いた数値です。もしくは、停留場Bを越えて引き続き乗る人に、停留場Bで新たに乗車してきた人を加えた数を停留場B-停留場C間の通過人数と定義する、と説明できます。いくつもの系統を抱える都心の停留場では計算が複雑になりそうですが、志村線の系統は12種類で、行き止まりの終点があるためシンプルに解析できます。志村橋行きでは当然、志村橋にて通過人数0になります。

板橋区が1969年(昭和44年)に発行した「板橋のあゆみ」では、1960年(昭和35年)乗客数調査の各停留場調査数値が掲載されています。ただし板橋区で作った本のため、滝野川五丁目から先、巣鴨方面の停留場データは省かれています。不便ですが、50年以上すぎた今では交通局にも詳しい資料は残っていないと思われるため、手元にある分だけで比較せざるを得ません。

 1960年と1964年の乗客数調査に基づく各停留場一日乗降者数・通過人数を方向別にグラフ化しました。

巣鴨方面乗降客数グラフ
(国立公文書館所蔵 運輸省提出軌道廃止届添付資料表の数値に基づき制作)

志村橋方面乗降客数グラフ
(国立公文書館所蔵 運輸省提出軌道廃止届添付資料表の数値に基づき制作)
ここでも、残念ながら減少傾向は否定できません。詳しくみると18系統の末端部に相当する小豆沢町、蓮沼町近辺で大きく下がっています。41系統では志村坂下の減少がひときわ目立ちます。一方で停留場によっては利用者が増えているところもあり、短距離利用にシフトしている現象もうかがえます。

方向別では1960年調査で双方向に大きな差は出ていませんが、1964年調査では志村橋方面の乗客のほうが多くなっています。その多くは板橋本町までで下車しています。すなわち、「往復とも都電利用」から、「巣鴨以南および巣鴨駅乗り換え→板橋地区の片道利用」および「志村橋-志村坂上間短距離利用」に変わってきていることが見て取れます。

この結果は交通局にとって迷うところだったでしょう。
地下鉄6号線の担当が営団だったら何とかして開通まで残したい、とりあえず18系統の板橋本町以北を打ち切って乗務員の要望にも応え、41系統も終車時間を繰り上げて地下鉄工事時間を確保する道もある、1ヶ月程度までならば期間運休もやむを得ないと考えたかもしれませんが、都営で地下鉄を作るのだし、警察から工事中渋滞の恐れがあると指摘されたら、都電に固執せずとも何とかなるという判断にしたと推測されます。

志村橋まで開通してから6年ぐらい、志村線は期待以上の効果をもたらしていたことでしょう。しかし高度成長の成果が国民にほぼ行き渡り、欧米風文化を暮らしに取り入れたプチブルジョア“小市民”階級(本来の“自営商工業”に加えて、ホワイトカラー給与所得者もこのカテゴリーに含めています)が板橋区にも増える頃になると、都心の路線と同様に苦戦するようになってきました。一方、都心や城東地区とはまた違った事情も見て取れます。以下そのあたりについて考察していきましょう。

1)都電を用いた遠距離通勤の必要性減少

小豆沢町、蓮沼町あたりで大きく下がった背景には、戦中・戦後この地域で操業していた中小工場をめぐる環境変化まず考えられます。高度成長で収益があがり余裕が出てくると、従業員に対する福利厚生に資金を回せるようになります。大工場のように敷地内の寄宿舎は難しいとしても、近くの下宿屋やアパートを借り上げることは可能です。ドラマなどでもよく出てくる「昭和の下宿」ですね。従業員の通勤負担が軽くなると、交通機関の都合による始業の遅延リスクも少なくなります。従って、通勤のために都電を使う人は自ずと減っていきます。

18系統に関しては、巣鴨以南の白山通りで軌道に自動車が入り込むようになり、それによる遅延を志村線までひきずる形で41系統より定時性が低下したことも乗客離れの原因とみられます。白山・小石川地区では他に交通機関がなく、バスも同じように遅れるため仕方なく使い続ける人が多かったでしょうが、板橋・志村地区で「41番はあまり遅れないが、18番はいつ来るかわからなくなってきた」という評判が立つと敬遠されがちになったかもしれません。一日乗客数グラフで、18系統の志村線内が顕著に下がっている傾向も説明できます。目的地によっては池袋経由でバスと丸ノ内線の乗り継ぎに変えた人も現れたとみられます。

2)旧街道系以外のバス路線の充実

1950年代まで板橋区の路線バスは、中山道と川越街道の2つの基軸、および富士見通(富士見街道)以外あまり充実していませんでした。ときわ台駅からは東京駅まで行く旧街道系の長距離路線が存在感を示していたものの、志村高校、大乗淑徳学園などの学校に向けたピンポイント輸送がむしろ主力でした。

現在の53系統1957年(昭和32年)9月に池袋駅-ときわ台駅-赤羽駅で設定されたといいますが、川越街道区間の交通量が多く、東武の踏切も障害になるため増便や定時運行が思うに任せない状態でした。その後川越街道側を打ち切り、全便ときわ台駅発着として、前野町地区でも広い道にルート変更したことにより、赤羽まで安定した走行ができるようになりました。

また、1957年の住宅公団蓮根団地入居、1961年(昭和36年)の大東文化大学移転(志村西台町現・高島平一丁目)などにより、志村坂上から西に向かい、志村銀座商店街を抜けて志村城跡下の坂から低地側に抜けるルート(当時の26系統、現在の池20系統)や、赤羽駅から現在の環八および都道446号線経由で板橋区を横断して成増に向かうルート(現在の赤02系統)の需要が急速に増加します。これらのバス路線は国鉄や東武の駅と直結していて、トータルの運賃では乗り換えが加わるため都電を上回っても、利便性では大差がなくなります。

蓮沼町から西が丘に回る51系統がいつ頃から今の道を通るようになったかについては資料がありませんが、路線自体は1957年からあったようで、北区稲付旧軍施設の米軍からの返還(1958年=昭和33年)が大きく効いたことと思われます。蓮根・長後・舟渡方面から浮間経由で赤羽駅に向かう路線も成長しました。赤羽への道が開けると、東京駅や有楽町、新橋、さらには横浜方面まで直結する京浜東北線へのアプローチがはるかに楽になり、都電の必要性は下がります。1962年(昭和37年)に京浜東北線で浦和電車区が開設されて本数が増えたことも赤羽ルートの追い風になったものとみられます。

3)「昼間人口型」から「夜間人口型」への変化

1960年代に入ると地価が急速に上昇して、そこに“マイホーム”志向が加わり、都市の郊外に家を建てる人が急増します。西武、京王、京成などの沿線はこの時期に大きく人口を伸ばしました。都心近くはもう手が届きそうにない、しかし遠距離通勤は躊躇するという層の人にとって、板橋区は格好の住宅供給源となりました。高島平団地の開発はその究極形と解釈できますが、その計画ができる前の都電の時代から、板橋区の人口動態は「昼間型」から「夜間型」にシフトしていきました。

以前は都心方面から小豆沢町あたりまで通勤して、夜は都心に帰っていく人が主流でしたが、1960年代に入ると志村地区から都心方面に通勤して、夜は志村まで帰ってくる人のほうが多くなってきます。すなわち人の流れが逆転しました。その需要には都電よりもバス+国電、もしくは東武のほうがよりよく応えられたことでしょう。
都電はバスと同じように補助交通機関という認識に変わっていったとみられます。

4)池袋の商業繁華街としての地位確立

昭和初期からの東京事情を見てきた人の文章には、「かつては池袋よりも大塚や巣鴨のほうがはるかに賑わっていた。」という述懐がよく登場します。池袋はある意味“政治判断”で作られたターミナルで、日本鉄道豊島線(現・山手線池袋-田端間)に始まり、東上鉄道、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)ともに、他の場所を終点もしくは分岐点として計画を出していたものを池袋に変更するように指導を受けています。

今、かつての都電終点近辺では某家電量販店の「不思議な不思議な池袋、東が西武で西東武…」のハイテンションソングがエンドレスでかかっています。あの曲を聴かされると頭に響き気分がすぐれなくなるため、朝早く以外はなるべく歩かないようにしていますが、上記の歴史的事情をきちんと知っていれば不思議でも何でもありません。西口に終点を置いた東上鉄道が東武に、東口に終点を置いた(その背景には都心方面乗り入れ計画がありました)武蔵野鉄道が西武に合併されたがゆえです。

市電池袋-護国寺間が開通するまでは丸の内、銀座など都心方面への交通も不便で、市電の下板橋終点時代は東武(上板橋・下赤塚方面)と市電(巣鴨・日比谷方面)の下板橋輸送連絡も行われていたといいます。(ブログ「板橋ハ晴天ナリ。」にてご教示いただきました。ありがとうございました。)

東武側はどの駅まで対象としていたかはあいにくわかりませんが、市電側はおそらく終点(当初は日比谷、後に神田橋)まで乗車券を発行していたと想像されます。すなわち、上板橋方面から東武に乗って下板橋駅で下車して、500mど歩いて中山道新道の下板橋停留場から市電に乗るルートです。昭和の高度成長期以降は到底考えられませんが、戦前の池袋は鉄道路線がたくさん乗り入れていても、それほどまで「使えない駅」だったのです。

戦後間もない頃でも繁華街としては大塚・巣鴨と大差がありませんでした。むしろ「東京拘置所」(現・サンシャインシティ)を控えて、戦犯の処刑も行われたなどのイメージが先行していました。しかし1954年(昭和29年)に営団地下鉄丸ノ内線が開通、(当初は御茶ノ水まで。池袋駅は工事の都合により現在地より200mほど新大塚寄りに仮駅を設置、翌年現在の位置にホームを移設。旧ホーム跡は1978年=昭和53年ごろまで資材置き場として使われていて、清酒の広告も残されていた。本ブログ作者目視確認。)さらに1950年代後半(昭和30年代)から大規模な百貨店が開業、もしくは改築されて、明るい家庭を築く商品を売る街というイメージ戦略が始まります。

現在の池袋西武(百貨店)は白木屋百貨店・京浜百貨店系列の「菊屋デパート」が前身で、1933年(昭和8年)に開店、武蔵野デパートを経て1949年(昭和24年)に西武に変わりましたが、都電終点の先に屏風のように構えるあの建物は1957年(昭和32年)ごろの竣工といわれています。

隣のパルコ池袋店は、国鉄で進めていた「民衆駅」(駅の建物を鉄道管理局関係事務所のみならず、一般の商業施設などにも開放するという意味)構想のもとに1953年(昭和28年)設立された「池袋ステーションビル」に京都の百貨店「丸物」が参加して、1958年(昭和33年)に「東京丸物」として開店、都電背景の屏風が完成します。

その向かい側には1957年(昭和32年)に三越が出店しました。三越のブランド名の威力はさすがで、西武・丸物よりも小柄な建物でありながら、あの日本橋の老舗が、豊島区や板橋区、練馬区の“小市民階級”に手が届くところまで来てくれたというインパクトは今の人の想像をはるかに超えるものでした。私の父も早速ファンになり、最後まで友の会に入っていました。

これらの百貨店は、全て志村線が志村橋まで運転していた時代に開店・改装しています。西口の東武百貨店は1962年(昭和37年)に開店、1964年(昭和39年)に東横百貨店池袋店を合併して本格的なスタートを切りました。この時点で池袋は巣鴨、大塚に大差をつけます。山手線が通る上に私鉄・都電・地下鉄あわせて4路線の終点(当時)という立地条件は、「ハレの日」のみならず通勤帰りにもお買い物とアピールするためには絶好でした。

池袋に当時としては最高度の、なおかつ銀座や日本橋のようにお高く止まらず庶民的な面もアピールできる百貨店が揃うと、板橋区における交通の流れも自ずと変わります。巣鴨を終点とする志村線はこの面でも不利になり、休日乗客も池袋に直通するバス路線にシフトしていきます。志村線の乗客が減少傾向に入った1962年は、池袋の大規模商業施設の基本骨格が完成した年でもあることは偶然ではないでしょう。

昭和型百貨店の全盛期は1980年代半ばごろまでで、バブル崩壊後は苦境が続きます。池袋では丸物こそ早々と撤退したものの長く牙城を維持してきましたが、2009年に三越が脱落。それは「中産階級」の時代から「格差社会」の時代に変わる象徴のひとつだったかもしれません。

しかし今でもバス停留所は「旧三越裏」と案内していて、某家電量販店裏ではありません。東武・西武は格安店のテナント入居などで工夫して、よく持ちこたえています。何だかんだ言いながらも、池袋は今でも「百貨店の街」でしょう。

一方大塚・巣鴨は特定の年齢層だけをターゲットにする街になってしまいました。地下鉄三田線は都電を踏襲して巣鴨を通るだけに、志村線が直面した人の流れの変化までもそのまま受け継いで「都心側はどこか微妙なところを選んで通る」と言われている模様です。

都電本で「軌道撤去の方向に舵を切った大きな要因」と説明される軌道敷自動車走行解禁(1959年=昭和3410月より、都心路線から段階的に実施。どこで勘違いしたのか、近年の本では1954年=昭和29年から、もしくは一斉解禁などと記されていますが、1954年の段階で許可していたら志村橋や福神橋などの延長が実現するはずなどないことくらい、少し頭を働かせればわかりそうなものです。)の影響が志村線でどの程度及んでいたかについては、前述した18系統巣鴨以南遅延傾向の波及効果以外、はっきりしたことがわかりません。電車の平均速度は下がっていたようですが、中山道について自動車軌道走行許可が出たかどうかも定かではありません。

今のところ確認できた写真では結構車が出ている場面でも、右左折待ち以外の自動車が軌道内に入っている様子はあまり見られません。後年都心や城東地区の路線でよく見られた、前後を車でふさがれて立ち往生という様子はうかがえません。青梅街道は許可が出たようで、14系統が車に囲まれつつ走る写真が残されています。

もっとも他所からわざわざ志村まで来て都電の写真を撮影しようと思い立つ人は、混雑する時間帯は避けるでしょうから写真に残らないとも考えられます。諸河さんも雑誌「東京人」のインタビューでその趣旨のお話をされていました。志村線については、軌道敷自動車走行が廃止促進原因のひとつとなった可能性はあるものの、主因とまでは言えないとみています。