2016年11月11日金曜日

都電本ガイド(3)続・都電百景百話 ●




(雪廼舎閑人・著、大正出版、1982年)


☆撤去10年、“衝撃の写真集”

都電撤去計画完了からちょうど10年すぎた1982年(昭和57年)春、書店に横長の厚い写真集が並びました。

その本には数多の都電の写真。
かなりの反響を呼び、新聞などでも取り上げられたといいます。
都電はじめ路面電車再評価ブームの嚆矢となった「都電百景百話」です。

著者名の「雪廼舎閑人」(ゆきのやかんじん)は、林順信さんが用いていた雅号です。林さんは有名出版社の編集者で、当時よく知られていた児童向け雑誌などに携わっていましたが、退職して著述業の道に入りました。「雪の降り積もる家に暮らす暇な隠居」という意味合いと思われます。林さんは雪景色の東京の街を好んでいました。都電の他、駅弁・江戸神輿・ジャズなどに関する著作もあります。

本の形状を横長にした目的は、都電の写真を1ページ使って大きく載せるため。
見開きで隣のページに撮影場所についてのエッセイを記し、それを100編まとめて「百話」としています。

林さんによれば、都電写真の撮影は1966年(昭和41年)秋ごろから始めたそうです。志村線の廃止に次いで、今後5年程度で全廃の方針が報道されると(その時点では、まだ正式決定ではありませんでした)、自分の親しんできた東京の街がなくなってしまいそうだと危機感を抱き、せめて写真に記録しておこうと、カメラを持って都電全路線を撮影するべく歩いて回ったといいます。3年ほどかけて膨大な量の写真を残しました。

林さんのお好みは雪景色の他、火の見櫓・昔ながらの構えの商店・煉瓦造りの西洋建築・祭礼など。江戸・明治期以来の文化をこよなく愛していました。

他方、高層ビルや高速道路、歩道橋など「人の匂いが感じられない、人よりもコンクリートを優先させる」イメージが強いものに対してはあからさまな拒絶感を示していました。住居表示による地名・町名改変にも強い憤りを感じています。

地下鉄については、結果的に都電を駆逐しましたし、形態そのものは面白くなかったようですが、稲荷町、末広町、仲御徒町など古くからの町名に由来する駅名をそのまま残していることは偉いと、営団を高く評価していました。一方で交通局に対しては「話にならない」。

文明の発展には「程よい頃合い」がある。風呂のように、冷たすぎてはいけないが、かといって熱くなりすぎてもいけない。コンクリートの建造物で何でもできるという考え方は、程よい頃合いを逸脱した“発展”なのではないか。そのようなことを続けていると、やがて取り返しのつかない事態を招くであろう。

私はそのように解釈しています。
林さんにとって、都電を中心とした交通体系や江戸・明治以来の街並みの姿は「東京の街にとって程よい湯加減」だったのでしょう。

前述の経緯より、林さんは当然志村線の写真お持ちではありません。本が話題になると、版元の大正出版には志村線と、それに先んじて1963年(昭和38年)に廃止された14系統(杉並線)もぜひ取り上げてほしいという要望が多く寄せられたそうです。

ご本人もまだまだ書き足りなかった様子で、上記両路線の写真を諸河久さんから提供してもらい、都心方面の写真もさらに充実させた第2集「続・都電百景百話」を半年足らずで仕上げて、1982年秋に上梓しました。

表紙は一ツ橋を走る17系統 数寄屋橋発池袋駅行きと35系統 巣鴨車庫発西新橋一丁目行き。
この場所は、軌道が道なりにカーブしています。
背景には雪を載せている「如水会館」の西洋風建物。
北国の都市のような光景です。

後年、「あまり雪景色を賛美していると、豪雪地帯に暮らしている人が見たらいい気がしないかも。」と心配になりましたが、林さんのもとにもそのような意見が届いたようで、「都電が走った街今昔」では配慮する一文を載せています。


☆自負と自虐の間で

林さんの経歴を見ていると、よく似た道を歩んだ人がもうひとりいたことに気づかされます。

鉄道好きの人はよくご存じの、宮脇俊三さんです。

しかし林さんの文章の書き方は、ある意味宮脇さんと対照的です。
宮脇さんは、ご自身の道中での失敗談を平気で書きます。

「時刻表2万キロ」評判も、唐津(佐賀県)でサザエの壷焼きの誘惑に負けて列車を降りたため、乗り残した区間ができてしまい、もう一度来る羽目になったとか、猪谷(岐阜県)で乗り間違えたため、富山港線の終点岩瀬浜駅までたどりつけず、後日徳島県および能登の帰り、米原経由ならばその夜の一番良い時間帯に帰宅できることを承知の上、岩瀬浜に行くためだけに富山経由にして寝台特急「北陸」を使ったとか、青函連絡船の寝台で飲んだくれて、翌朝奥羽本線の列車で寝過ごしてしまい、予定していた花輪線の急行に間に合わなくなり、タクシーで追いかけて所持金がほとんどなくなった…などの「トホホ話」が読者のカタルシスを呼び、同時に自分自身も他のことで同じようなアホをしていると気づかせる効果があったがゆえでしょう。

余談ですがこの本に親しんできたら、「富山ライトレール」にはいささか認め難い感情を抱くことでしょう。全くの新線LRTならば評価できるのですが。

宮脇さんはおそらくご自身で全く気づかないままに、お笑いの基本を身につけていらしたのでしょう。それゆえに亡くなってもなお、多くの人の記憶に残っていると思われます。内心のプライドの高さは、おそらく林さんを上回るものがあったと見受けられますが、それは隠しておくくらいがちょうどよい、というお考えだったと推察します。

対して林さんは、この種のお話を一切明かしません。
後年の著作ではいくらか丸くなってきましたが、「都電百景百話」では強烈なエリート意識が結構むき出しに記されています。著名人との交流や、招待されて出かけたという一流の映画・演劇鑑賞のお話もしばしば出てきます。

<引用>
「東向島三丁目なんて、いやな名前だ。以前の寺島二丁目のほうがずっとよい。」

<引用終了>

と、ストレートな物言いをします。読む人によっては、ずいぶん威張っている、エリートコースを自慢気にひけらかせていると受け取るかもしれません。現在よりも学歴信奉が強かった時代ならばなおさらでしょう。それだけに後年の取材で三田の薬局を訪れた際、「都電百景百話」を置いていて、お客さんに見せると喜んでくれるというお話を聞いたときの嬉しさはひとしおだったと思われます。

このタイプの人に普段接する人たちの好悪ははっきり分かれると思われます。インターネット上に公開されるブログですから、詮索めいたことはこれ以上申しませんが、自負心はその表し方により、周囲に与える印象がかなり異なる事例とも考えられます。

林さんは撮影した写真を、自分の意図しない形で取り上げられたくなかったようで、外部の機関に協力することはほとんどありませんでした。その一方で、2系統の神田橋交差点や池袋駅前発大塚車庫入庫便の16系統など、林さんの写真でしか見ることのできない貴重な記録も少なくありません。アーカイブ化・データベース化の難しさもまた浮き彫りにされています。

エッセイページの左下には「都電ミニヒストリー」というコラムがあり、撮影地を通る系統の歴史について解説していますが、残念ながら現在では信憑性に欠けるという評価とせざるを得ません。

基本的な事実関係の誤りについては、私の知らないものも少なくないとは思われますが、とりあえず臨時20系統について、池袋駅前-八重洲通り(通三丁目)直通運転はなく、池袋駅前-上野広小路(神明町車庫入庫便もあり)および神明町車庫-通三丁目の2種類制だったこと、および他の方の撮影写真から、日曜祝日に限らず運転されていた形跡が認められることのみここで記しておきます。後年の著書でも、あいにくこの事項の訂正には至りませんでした。

それ以上に、ほとんどの項目で「昭和5年までX番の△△~□□が運転され、昭和6年からY番の▼▼~※※間になる。」的な書き方をしているほうが気になりました。これでは1931年(昭和6年)の元日に系統が変わったことになります。実際は193141改定ですから、昭和6年の初めはまだX番の運転という事実が伝わりません。

「都電百景百話」シリーズは、鉄道友の会を中心として活動していた、路面電車愛好のお偉方の皆さん結構驚かせたかもしれません。鉄道写真としての技術を有していて、その上に街並みの変遷にも詳しい林さんの”出現”は、その信条に共鳴するかどうかはまた別の問題として、それまでの活動を見直す契機となったものとも考えられます。