2016年10月23日日曜日

都電本ガイド(22)鉄道ピクトリアル

(電気車研究会/鉄道図書刊行会・編 月刊誌)

鉄道好きな方には改めて説明を要しない老舗有名雑誌です。都電など都市軌道路線についても古くから取り上げていて、高松吉太郎さんなど、鉄道友の会の路面電車派の人がしばしば寄稿なされていました。年月の経過を経て、極めて貴重な資料となっています。

☆「新旧交替」鮮やかな19668月号


1966年(昭和41年)8月号(187号)は、今から20年ほど前にサンシャインシティの古書市で見かけました。志村線最終日装飾電車の表紙を見て、即購入しました。

中を開くと、志村線の写真はこの表紙だけでした。前の号(7月号)あたりで記事になっていたのでしょうか。

しかしこの号は、都電以外の記事や広告にびっくりさせられます。
特集は「樺太の鉄道」。
現在のサハリン州南部が日本領だった時代の鉄道路線に関する詳細な記録や機関車、客車、駅や炭鉱、沿線風景の写真などには目をみはりました。

先年亡くなった大相撲横綱が生まれた街「敷香」(しきか)、栃木県の東北本線の駅を一時「下野豊原」にさせた「豊原」、現在は紀勢本線の駅名になっている「大泊」などの位置もわかります。(注・この横綱の現役及び引退後は、北海道内の町が出身地とされていました。)敷香は国境にかなり近い街で、稚内に面する大泊から夜行列車も運転されていたといいます。

西海岸には「先斗」ではなく「本斗」、「真岡」という駅も記録されています。
お座敷小唄でも歌いながら乗りたい汽車です。その時代にはまだありませんが。

「本斗」は「ほんと」と読んでいたそうですが、元はアイヌ語の「ポン・ト」(小さい沼)でしょう。北海道内にも同じ地名がいくつかあります。

以下私の想像ですが、この地を開拓した人が「ポント」と聞いて、「秩父別」と同じ要領で「先斗」にしようとしたら、さすがに悪ノリがすぎるという意見が出て「本斗」の文字を充てたのでしょうか。
(注:確証は取れておりません。ジョークのため、真に受けないようお願いします。)

樺太東線と樺太西線を結ぶ「豊真線」には峠越えのループ線が設けられていました。この線名も力士を連想させます。

一般の住民が乗れる路線の最北限の駅は「上敷香」ですが、その先の国境線(北緯50度)近くにある「気屯」(きとん)まで軍用線が敷設されていました。ここが、日本史上最北端の鉄道駅ということになります。

その事実を知った途端、全線完全乗車とか、全駅下車という試みの価値がかなり減じた感がしました。この雑誌を買った時点で、明治の鉄道開通から既に120年が経過していますし、厳密な意味で「日本の鉄道を完乗した」「日本の鉄道の全駅に乗降した」人類は誰ひとりとして存在していないのです。

最近はこの種のツッコミをかわす狙いからか、「何年何月何日以降の営業線で完全乗車」と言っている人もいるみたいです。

一方、当時の鉄道関係者による終戦時の証言には想像を絶するほどの過酷な状況が、さらりと記されています。これは大変な雑誌を手にしました。

白土貞夫さんが取材した頸城鉄道(新潟県)の小さな蒸気機関車には「これでも1966年の汽車」と説明されていますが、あと10年持ちこたえていたら人気が出たかもしれません。

ニュース記事には、山手線の10連化を1968年(昭和43年)から1969年にかけて実施する予定、横川と軽井沢の間の複線化工事が完成、水戸と大洗の間で営業していた茨城鉄道水浜線の廃止、阪神高速道路工事の脇を走る神戸市電、仙台市電の最後の木造車などが掲載されています。

大トリは裏表紙。この年の夏に新線を開通させた、ある私鉄会社の広告。
この文章が、今でいう「ちゃらい」。
ただ苦笑あるのみです。

真っ暗闇からいきなりまぶしい光の中に移る際に目と頭がクラクラする、あの感覚を味わえる一冊です。フラダンスフェスティバル。すいか早食い大会などのイベント告知が、「戦争から平和へ」を鮮やかに伝えています。

今ではこの会社も、水着のままで乗る客には怒るはずですね。
それにしても「デートナ・ビーチ」とは何の意味でしょう。

☆わざとらしくではありません(199512月号)


199512月号(614号)の特集は「東京都電」。
この号には当時の荒川電車営業所長、および東京都建設局在勤の方が荒川線について、運営側からの見方を述べている点が特筆されます。

成人して広島電鉄、長崎電軌、函館市電、札幌市電、名鉄岐阜市内線、西鉄北九州市内線、阪堺電軌など他都市の路面電車に乗る機会があると、どこでもベルを鳴らさず、静かに発車することにすぐ気がつきました。

対して都電は、ワンマン化後ならば電子ベルに置き換えることも、なくすことも可能なはずですが、「チンチン」の音を続けています。この号を買った頃は、観光客におもねっているようで、何となくわざとらしいという印象を持っていました。

しかし現場では6152の復帰(1987年=昭和62年)に伴い軌道運転取扱規程の改正を行い、一時期削除されていた車内電鈴合図を正式に復活させて、東京都公報に載せた旨のお話が記されています。それで納得できました。

「あのベルがないと電車は動かないものと思い込んでいる乗客の転倒を防ぐ」には笑いましたが、他の都市ではそのようなお客さんはいなかったということでしょうか。

この記事では東京都公報の価値についても言及されているゆえ、18系統19678月末日廃止説をそのまま本に載せる編集者さんは、ぜひぜひお時間を少しだけ取っていただき、広尾の有栖川公園までお越しくださいませ。

江本廣一さんによる「東京市電~都電 車両大全集」は優れた記事です。いわゆる「オタク」的な事項解説にとどまらず、多彩なエピソードを紹介しつつ、各年代の電車とそれに関わる人たちへの温かなまなざしが感じられ、文章としても味わいがあります。今の都電本ライターに最も欠けている姿勢ではないでしょうか。この記事の前書きにある「神代(かみよ)時代」のお話は、市電・都電について考察する後世の人にも捧げられる名言でしょう。

最後は、テレビにも時折登場する小野田滋さんによる、市電の池袋駅前延長に関するお話。武蔵野鉄道(現・西武池袋線)が計画して、不認可承知で池袋-護国寺間以外にもあちらこちらに敷設免許を申請して、その既得権益および存在感をアピールしようとしたというお話は、当時の私鉄会社どうしの競争の一端を垣間見るものです。1925年(大正14年)に池袋-護国寺間の軌道免許を受けた後、1928年(昭和3年)には池袋から都心を貫通して秋葉原へという地方鉄道計画を出願しました。これは東側を地下鉄にするという内容で、前年浅草-上野間で開通したばかりの地下鉄道方式を取り入れてお役人をびっくりさせようとするものでしたが、関東大震災後の都市計画事業をかく乱するとして否決されたといいます。しかし後年の丸ノ内線のルート(一部高架線)には、この時の発想がいくらか取り入れられているとみなすこともできます。

武蔵野鉄道は飯能から吾野までの路線延長が経営悪化につながり、都内側の足を引っ張ったため、地元では武蔵野鉄道に対して、はったりばかりかましていないでとにかく実際に作ってほしいと催促するかのごとく、先に軌道用として雑司ヶ谷地区の道路開削(池袋駅東口の大通り)を行い、お金がないと言うのならば東京市に軌道免許を譲るように頼み、それが実現したことでようやく市電の池袋線開通(1939年=昭和14年。板橋線より10年遅れを取っています)にこぎつけたというお話です。池袋への市電延長が他のターミナル駅よりもかなり遅れた原因でもありました。

武蔵野鉄道のその後についてはよく知られている通りですが、何かと派手に広げるようなことをしたがる社風はこの頃から源流があったのかもしれません。

そのような苦労してまで開通させたにもかかわらず、30年でお払い箱は確かにもったいない話で、LRT構想を立てるのならば池袋を優先してほしいものです。

<追記>

この記事を書いてまもなく、池袋駅前とサンシャインシティの間LRTを運転させるという豊島区の構想の話題がニュースとして取り上げられました。既存の路面電車というよりも、架線を使わない電気自動車方式で、遊園地のアトラクションのような乗り物を想定している模様です。当然のことながら「いらない」という否定的な意見がほとんどでした。

駅前の通りはもともと軌道を通すため作られた道路ですから、その意味では理にかなっていますが、観光目的のみでは物珍しさに一度来れば、大概の人はそれで満足してしまいます。これを理解できずに短期間でなくなった施設は数え切れません。
いつまでも「アニメロード」だと思わないでください。

作るのならば荒川線接続、日常生活用途にしないと、時の流れに耐えられません。
豊島区ではあの道路について、いずれ自動車乗り入れ禁止としたいと考えているとも伝えられました。しかし今さらそれをやろうとすれば大反発を招くことでしょう。
あたり一帯を回る大型宣伝トラックにお引取りいただくには有効かもしれませんが。

かつて神戸市電で考えられていたように、軌道のほうを高架線にしますか?
その案でも東池袋の交差点で高速道路にぶつかってしまいます。

高速道路がなければ交差点の先で高架を降りて、現在東池袋四丁目付近で工事を行っている新道を使い、荒川線への合流も可能でしょうが…今の構造では路上・高架とも建設は難しいと思われます。
残念ながら、前言撤回しましょうか。