2016年10月31日月曜日

都電本ガイド(14)懐かしい風景で振り返る東京都電 ●



(イカロス出版・2005年)

21世紀に入るあたりから交通関係(主に航空・鉄道)の本を多く出版しているイカロス出版による都電本です。この時代には既にインターネットが行き渡り、過去の写真などのデジタル化技術も普及しはじめた一方、かつて出版された都電本はほとんど古書となり、交通局オフィシャルの動きもしばらく途絶えていました。この頃から「昭和ノスタルジー」ブームが起こりはじめていたため、それに応える意図もあったとみられます。

名所どころおよびその周辺地域で撮影された写真グラビアに始まり、市電時代の路線図など“お宝”の紹介、車庫・系統の解説、都電の歴史、第一次撤去および最終撤去によるお別れ運転日の模様、車両仕様解説と、オーソドックスな作りですが、先達たちが残した本を見られない層にもわかりやすいように工夫されています。

車両のアップも引きもバランスよく配置されていて、鉄道書籍を手がけている出版社ならではの味が感じられます。板橋本町停留場南の18系統すれちがいや、諸河さんの本掲載の写真とは反対方向から志村坂下停留場を撮影した写真などには感心しましたし、志村線に対してバイアスをかけていない編集方針には好感が持てました。

この本の特徴としては、トロリーバス、撤去計画時代から現代までの荒川線の歩みなど、本流都電ファンが敬遠しがちな話題にも正面から取り組んでいること、さらに「小児運賃の設定は現在の荒川線区間のみまで減らされておよそ1年後の1973年(昭和48年)から」「都電の定期券は、1977年(昭和52年)まで各月の1日~末日単位で発売していた」など、鉄道の本では見逃されがちな、なおかつ当時使っていた人でも忘れがちな事項まで押さえていることがあげられます。

私事ですが、祖父と電車(動坂線)に乗った際、祖父が車掌に

「これ(私)は、もう大人だから。」

と言って2人分を支払っていたことを、コラムを読んでいてふと思い出しました。

それまでは「乳幼児」扱いで無料だったところ、小学校にあがって運賃が必要になったから、車掌に堂々と告げたのでしょう。臨時20系統が池袋まで運転していた最後の年のことでした


☆路面電車にとっての”やんなっちゃった 

後半では「東京の路面電車慨史」というわりと長めの原稿が掲載されていて、林順信さんの文章をベースとしながらも、林さんなど大正・昭和初期生まれ世代の人たちとはやや異なる観点から、市電→都電の栄枯盛衰について述べています。文中、1938年(昭和13年)8月に成立・施行された「陸上交通事業調整法」について概略が説明されています。これについては後述します。

この筆者さんが路面電車廃止の主な理由として「五輪、博覧会などの大きなイベント開催」をあげたことは慧眼です。ようやく長年の胸のつかえが取れた思いがいたしました。たかだか2週間から数ヶ月程度のイベントで、その後何年も続く日常の生活が左右されては、たまったものではありません。あいにく実りませんでしたが、自信を持って終始一貫「2016年→2020年五輪招致反対」の意思表明をしたことに悔いはないと、この文章を見て大いに励まされました。

ここで本書のレビューからやや逸脱してしまい、関係者の皆さまには失礼ですが、私見を述べたく存じます。路面電車の恨みなどを越えた次元で、私は東京五輪招致・開催には今なお賛成できません。五輪自体が本来の精神からかなりかけ離れてしまいましたし、五輪のためならばお金を出して当たり前、施設を作って当たり前、国民が一致協力して当たり前という全体主義的発想が好きではありません。

まして現代はどこもお金が不足していて、将来世代への負債が天文学的数字になると試算される状況です。その洞察力もなく、短期間のイベントに惜しげもなくお金をつぎ込み、焼け石に水の瞬間的経済効果で目をくらませて、後の長い時間は知らん顔が許されるものでしょうか。感動や勇気ならばテレビ画面で十分に伝わります。そのための放送技術進歩ではありませんか。

観戦する側も本当に好きならば五輪おじさんのように、身銭を切って世界中どこへでも行く胆力と、生涯をそれに捧げる覚悟をお持ちになられるはずです。明暦大火の後で保科正之が、焼失した江戸城天守閣を再建しようと企てた幕府要職のお歴々を抑えて、家綱将軍に「今は、民の暮らしを回復させることこそがまず肝要でございます。」と進言したというエピソードが、私は好きです。今の世の中に長期的視野をふまえて明晰な判断のできる人材はいないのでしょうか、いても選挙で選んでもらえないのでしょうか。

都電が志村橋まで運転していた時代に大人気を博したウクレレの演奏を思い出してみましょう。
決めフレーズ以外の歌詞は本ブログ作者の自作です。

♪ (G) オリンピックは (G) 感動与える
(G) パラリンピックは (G) 勇気を与える
(G) 子供たちには (G) 夢を与える
(D7) 大人になったら (G) 借金与える

(C) あーーあーあ (G) やんなっちゃった
(D7)あーーあーーあ (G→D7→G) おどろいた

※アルファベットはウクレレコードを示します。

五輪や万国博覧会はまだしも、「国体までを合言葉」として路面電車の廃止にまい進した街があったとは情けない限りです。その時代は「遅い路面電車などみっともない」という考え方が支配的でしたが、路面電車を走りづらくする環境に仕立てておきながら、一方的に責任をなすりつける姿勢こそが「みっともない」のです。

この種のイベントに熱狂して(もしくは集団心理で熱狂するように誘導されて)そのためには日常生活の犠牲も厭わないという国民性は、皮肉にも林さんが愛してやまなかった「祭礼文化」で醸成されたものでしょう。古くからの街の祭礼は、路面電車との共存が絵になりましたが、自治体や政府が関与するほど大きくなると、路面電車を踏みつぶしにかかってきます。

ではもう一度。

♪  (C) あーーあーあ (G) やんなっちゃった

(D7)あーーあーーあ (G→D7→G) おどろいた


☆陸上交通事業調整法の説明について

次に、陸上交通事業調整法に関する記述についてみていきましょう。

この法律は、たまたま戦時体制への移行時に重なりましたがそれが主目的ではなく、同じ地域に細かい鉄道・軌道事業者が乱立していると利用側にも運営側にも何かと不便なことが多いため、整理統合をスムーズに行うための法的裏づけという趣旨で制定されていて、現在まで適用されています。

全国各地で統合に関する交渉が始まりましたが、実際は国が関与する以前に整理統合の話がほぼまとまっている地域がほとんどだったそうです。しかし東京は市域の拡張や交通種類の増加などの事情が重なったこともあり協議を行い、旧東京市域とその郊外について、鉄道省線を境として数ブロックに分けて、それぞれ主管事業者を決める方針を取りました。省線電車は基本線に相当することもありまず除外して、私鉄・公営についておおよそ以下の分担に決められました。

1)旧東京市域および周辺の路面交通(軌道電車、乗合自動車)=東京市
2)旧東京市域および周辺の地下高速鉄道(計画路線も含む)=新事業者
※新事業者に対する政府の助成も定められています。
3)東海道本線と中央本線の間の私営鉄道(城南、城西地域)=東京急行電鉄
4)中央本線と東北本線の間の私営鉄道(城西、城北地域)=西武鉄道
5)東北本線と常磐線の間の私営鉄道=東武鉄道
6)常磐線以南、東京湾までの私営鉄道(城東地域)=京成電鉄


本書における解説は以上ですが、実際の動きをみると明文化されていない「除外ルール」があるように思えます。

7 既に他ブロックの主管事業者に統合されている路線についてはそのまま経営する。
8 複数ブロックにまたがる路線については、ブロックごとの分割は行わず、ひとつの主管事業者に任せる。
9 旧東京市域外の軌道電車路線については、該当地域の実情を勘案して路線ごとに(1)もしくは(3)以降のルールを適用する。

2)は帝都高速度交通営団の設立根拠として機能しました。営団は1941年(昭和16年)の国家総動員体制のもとで発足した、公と私の中間的性格の特殊法人です。今の人は「営団」といえば地下鉄の会社と認識しているでしょうが、戦時中は住宅営団などいろいろな営団がありました。

3)(4)は後年伝説上の人物になった、政財界にも顔が利く鉄道界の大物経営者の意向も働いているでしょうか。(3)は京浜電鉄、京王電鉄、帝都電鉄、小田原急行電鉄などを合併していわゆる「大東急」を成立させる根拠となりました。有名どころが揃って東急になったことはインパクトが強いため、戦時体制の象徴と受け取られることも少なくないようですが、実態はやや趣が異なっていました。

1980年代前半まで京浜急行には「KHK」、京王線・井の頭線には「KTR」、東急各線には「TKK」、小田急には「OER」と記した電車がたくさん走っていましたが、それは戦後東急から再分離独立したことを明確に示す目的があったと考えられます。(他に、京成も一時期「KDK」を使っていたといいます。)各社とも新型車の導入で急速に姿を消しましたが、京浜急行には2010年くらいまで「KHK」がわずかに残されていました。現在は小田急車両の一部に「OER」が残されているのみといいます。

現在の西武多摩川線は(3)の地域に入りますが、施行時点で既に西武鉄道に合併されていたため(7)を適用して、大東急の対象外でした。

4)は西武鉄道と武蔵野鉄道、多摩湖鉄道などの統合に適用されましたが、旧東上鉄道は東武鉄道に合併されて20年近く経過していたため、同じく(7)により引き続き東武が経営しました。

東武野田線は(5)と(6)にまたがります。施行時点では「総武鉄道」でしたが、既に大宮-船橋間で全通していたため、(8)の適用で東武に引き取られています。


…と私は解釈していますが、この原稿の筆者さんは隠れた除外ルールを意識していないようで、やや粗のある書き方をされています。そのページには1942年(昭和17年)版市電路線図の写真が掲載されていますが、武蔵野鉄道について「東武」と誤記されていることは皮肉です。

東京市による王子電気軌道や城東電気軌道(合併時は東京地下鉄道の軌道部門)合併は(1)が根拠になっています。逆に、戦後交通局も地下鉄事業に参入したいと意思表明したこと自体が(2)の趣旨に反するともみなせます。前述のとおり、都営地下鉄に対しては当初から運営技術を危ぶむ声があったようですが、様々な意味でいささか身の丈を越えた望みだったのでしょうか。

主に荏原郡(現在の世田谷区)地域で電気軌道事業を経営していた玉川電気軌道は、法律施行直前の19384月、東京横浜電鉄(東横電鉄)に吸収合併されましたが、法律の適用方法については(9)により、路線ごとに対応が分かれました。

山手線内の路線である天現寺橋線(渋谷駅-天現寺前、戦後は34系統使用)および山手線をまたがる中目黒線(渋谷橋-中目黒、戦後は8系統使用)は(1)を適用してその年のうちに東京市に委託。

東京急行電鉄が主管営業となる地域の玉川線、世田谷線、砧線、溝ノ口線は鉄道線に準じて(3)を適用して、東急に合流する。

西武鉄道の新宿軌道線(新宿-荻窪間の青梅街道上。鉄道の新宿線は当時「村山線」と称していました。)は城東電軌と同じく東京地下鉄道に経営が受託されていたため(1)の適用で委託先を東京市に変更して、戦後は14系統杉並線として運転されています。

バスについては基本的に(1)の規定が適用されますが、戦後は地域により、守られ続けているところと民間の事業者に「投げた」ところが分かれました。民間事業者はさらに、地域私鉄系(京浜急行、小田急、東急、京王、西武、東武、京成)と非鉄道系(国際興業、関東バス)に分類されます。

板橋区は国際興業バスの定期券があれば区内のほとんどの町に行けますが、都営は環七経由の1路線(王78)しかありません。

逆にほとんどが都営という地域や、練馬区のように都営、国際興業、関東バス、西武バス、京王バスと入り乱れている地域もあります。

なお、東京モノレール(1964年=昭和39年開業)以降の湾岸地域路線(東京臨海高速鉄道、ゆりかもめ)については最初から適用されていません。日暮里舎人ライナーは交通局経営で、軌道の扱いであるため、(1)の精神を受け継いでいるとみなせます。


☆トロリーバスも充実

この本では都営トロリーバスについて、他にはみられない詳細な解説を載せています。しかし、渋谷駅-品川駅間の開通について東急が反対した理由として上記の陸上交通事業調整法をあげていますが、それはやや無理がありそうです。大東急の時代ならばまだしも、トロリーバスの計画が立てられる前に東急は主要各社を再び分離・独立させていましたこの路線は五反田駅で山手線とクロスしていて、条件としては都電中目黒線と同じです。


併記されている、東急玉川線(玉電)と架線が輻輳する区間の設置方法の対立が最大の理由でしょう。トロリーバスは軌道電車の扱いですから(1)が適用されるはずで、一般のバスは数年前まで東急のテリトリーに入る都営路線がありました。