2016年11月25日金曜日

巣鴨四丁目2016



巣鴨四丁目停留所。現在のバスは浅草行きのみ。
(2016年5月)
☆広いけれども“裏道感覚”

巣鴨四丁目は志村・板橋線の中でも地味な停留場であろう。乗客数調査でも、板橋区以外では少ないほうに属する。戦時中は何かと優先してもらった板橋線の中で、唯一「不要不急の停留場廃止」対象とされている。

50年後に現地を歩いてみると、山手線駅からそう離れていない場所の大通りであるにもかかわらず、何となく「裏道」の匂いがする。地元の人には失礼な感想で申し訳ないが。

白山通りに沿って建てられているビルや家屋が、地蔵通りと呼ばれている旧道のほうを向いているように感じられる。高岩寺の力は新道ができても、市電ができても、地下鉄に変わってもびくともしないほどの強さがあることを実感する。東側には中央卸売市場豊島市場の広い敷地がある。都電の時代から青果市場であるが、地元の人以外にはほとんど知られていない模様。そのあたりにも地方都市のふんいきが漂う。ただしその先はソメイヨシノで知られる染井の里で寺院も多く、最近脚光を浴び始めている模様。

「都電が走った昭和の東京」には、「巣鴨駅前」と記されている、同一場所で撮影されたと思われる写真が2枚掲載されている。駅前にしては背景が少しさっぱりしすぎていると直感した。第一、41系統が写っているから駅前ではない。

電車の左には寺院と思われる建物がある。Googleマップで調べてみたら、このあたりで白山通りに面する寺院は高岩寺のみ。遠くに電柱に混じってかすかに認められる火の見櫓は、巣鴨四丁目の豊島消防署巣鴨出張所のものだろう。
現地に出向いて撮影した写真を紹介する。
「都電が走った昭和の東京」掲載 荻原二郎さん撮影場所付近。
(2016年8月)
この場所は巣鴨四丁目よりも巣鴨車庫前のほうが近いが、編集の都合上当項目で取り上げた。

☆「巣鴨劇場脇」停留場

「板橋区史 資料編4 近・現代」には、東京市が1929年(昭和4年)311日付けで鉄道省など政府機関に提出した、市電板橋線特別旅客運賃制度認可申請書(庶発第381号)の内容が掲載されている。当時の郡部地域路線について、東京市内の路線とは運賃体系を別途定めることを目的としているが、その付表には巣鴨二丁目(巣鴨車庫前)停留場から0.618km地点に「巣鴨劇場脇」(すがもげきじょうわき)という停留場を設置することが記されている。庚申塚(→新庚申塚)停留場との距離は0.432kmで、巣鴨四丁目停留場を示すとみて差し支えないだろう。

この名称は「日本鉄道旅行地図帳 5号 東京」掲載の表には記録されていない。
計画時点での仮称で開業する際「巣鴨四丁目」に改めたのか、「巣鴨劇場脇停留場」として実際に営業していた時期があったのかは謎である。

「豊島区史」によれば、巣鴨劇場は1923年(大正12年)8月巣鴨四丁目に開業した。最初は舞台が設置されて喜劇を中心に上演したが、やがて活動写真館になったという。当時の封切り館(ロードショー)は浅草に限られていたため、「二番館」の地域代表格であった。青果市場(現在の豊島市場)そばのため、地元の人には「やっちゃばの映画館」として親しまれていた。この地域には後に「巣鴨館」も開業したが、いずれも1945年(昭和20年)4月の空襲で焼失、廃業したという。



☆停留場データ

開設日:1929年(昭和4年)419
一旦廃止日:1944年(昭和19年)105
復活日:1948年(昭和23年)415
設置場所:<巣鴨方面>豊島区西巣鴨四丁目13付近(現・豊島区巣鴨丁目12付近)
<志村橋方面>豊島区西巣鴨四丁目2付近(現・豊島区巣鴨四丁目26付近)
志村橋からの距離:営業キロ7.7、実測キロ7.698


☆本停留場付近で撮影された写真が見られるメディア

(1) 書籍「都電が走った昭和の東京」126ページ
書籍「都営交通100周年 都電写真集」114ページ
18系統神田橋行き6103 撮影:荻原二郎 19625
※以上2枚は同一写真

(2) 書籍「都電が走った昭和の東京」144ページ
41系統巣鴨行き6102 撮影:荻原二郎 19625