2016年12月10日土曜日

志村坂近辺2016

志村坂総泉寺前。かつて都電41系統の撮影名所だった。(2016年8月)

志村坂下停留場を発車した41系統巣鴨行きは、後に環八通りとして整備される赤羽方面バス通り交差点を越えると、ただちに上り坂にかかる。右斜め(南西)側に分かれる下り坂が旧中山道。このあたりは志村坂開削工事の際に盛り土していて、旧道部分もかさあげされている。旧道は一旦下がったところで左に折れ、急峻な上り坂に変わる。

電車はモーターをうならせて広い坂を登る。細身の“イケメン”8000形よりも、古豪の4000形のほうが似合うだろう。振り返れば来た道には、荒川低地沿いの工場に建ついくつもの煙突から煙がたなびいている。左手には大きな寺院。いつしか、何かを発酵させたような匂いが車内にも届いてくると、志村坂上の交差点は目の前である。

☆大善寺物語

今でこそ当たり前のように見える志村坂であるが、100年前(1916年ごろ、大正初期)までは断崖絶壁だったはずである。後ほど詳しく考察するが、中山道新道整備計画実施より10年ほど先がけて、曲がりくねった「清水坂」の脇の土地を使い、自動車の通行に適する一直線の坂道が開削された。現在は崖上西側(小豆沢三丁目)の総泉寺で、坂に面した法面に斎場を設けているが、その付近から「東京都電の時代」(大正出版、1997年)108ページ掲載の、吉川文夫さん撮影写真で左側(坂の西側)の木立ちが切れるあたりまでが、かつての“台地のキワ”であったとみられる。
「東京都電の時代」108ページ掲載写真(1955年撮影)の位置でフレーミングを
合わせる。左のマンション奥が地下鉄のトンネル出口。(2016年8月)
中山道は徳川政権の命により1604年に整備され、清水坂もその際設けられている。清水坂は「地蔵坂」「隠岐殿坂」(隠岐守の受領名を有していた武士が大善寺の僧侶とともに整備にあたったことに由来するという)などの別名を有していて、坂上の集落から北西方向に下り始め、崖地に来ると向きを北に変えて急勾配となる。降り切る手前で西への急カーブがある。かつては坂を下りる場合、富士山の見える方向が途中で進行左側から右側変わるため「右富士」として知られていた。

清水坂の石碑。(2011年4月)
清水坂の急カーブ。右は崖地。中央マンションの向こう側が新道志村坂。
地下鉄開口部は左側にある。(2011年4月)
清水坂下。旧中山道は左奥から手前に曲がる。
志村坂も開削前は同じような崖地であった
ことがうかがえる。(2016年10月)
大名が参勤交代で通行する道であるにもかかわらず100年以上ほとんどメンテナンスが行われていなかったようで、18世紀前半には相当荒廃していたという。江戸名所図会によれば、当時の街道から100メートルほど東に離れた大善寺の僧侶がこの状況を憂い、1740年代に勧進を募り清水坂一帯を整備して、石段を作ったという。

「志村警察署史」(1995年)の表紙裏見返しにあしらわれている江戸期の中山道志村絵図では、今の志村坂の場所を横切るように、清水坂から大善寺に至る石段が描かれている。その石段は明治が終わる頃まで、寺でメンテナンスしていたことであろう。

なお、大善寺は1510年ごろ小豆沢集落の、崖の上に開基したと伝えられている。徳川吉宗が鷹狩りに来た頃(1720年代)はまだ荒れ放題の道であったはずで、大善寺の関係者は境内の崖道を注意深く下りてもらうよう促しつつ、将軍一行をローム層から湧き出る泉まで案内したと推定される。吉宗将軍はこの水の美味に感心して、清水薬師の名を下賜したと伝えられているが、その際街道補修の必要性に思い至ったとも考えられる。

一方総泉寺はもと浅草にあった古刹で、大正時代の関東大震災を機に1928年(昭和3年)移転してきて、大善寺を合併したという。既に志村坂は開削されていたため、田舎でもそう不便ではないという目論見だったとも推定される。移転に際して、寺に由緒のある記念碑等の大半は浅草に残してきたとも伝えられていて、ここでも「都落ち」感覚を露骨に示されていたことがうかがえる。

まあ、志村だからと言われたらそれまでだが。

☆国内初のパン製造イースト工場

開通当初の志村坂は、坂上の清水坂との分岐点で右(北東側)に道を取る形で、大善寺側に現在の半分程度の道幅で作られていたことが地図からうかがえる。しかしこの開削は、志村地区の工業化と公共交通網開拓の第一歩であった。

低地側に最初に進出した工場は前述の「日本セルロイド会社」だが、台地側最初の大規模工場は1929年(昭和4年)に、前年浅草から移転してきた総泉寺の南隣の土地を使い創業した「オリエンタル酵母」である。関西資本東京進出の日本セルロイドに対して、オリエンタル酵母は最初から志村小豆沢を事業拠点とした。同社ホームページによれば、国内最初のパン製造イースト工場である。

現在は米食の良さが見直されているが、当時は西洋人の小麦系高栄養食品が脚光を浴びていて、体格面でも西洋人なみの人間を育てたいというニーズがあり、それに応える事業計画であったことだろう。少なくとも当初は民間の産業振興目的で、軍需と直接の関係はなかったとみられる。

ところが事業の性質上、工場から日常的に発酵工程ラインの独特の匂いが周囲に漂う。嫌な人はそれだけで引っ越しを見合わせたことであろう。「昭和30年・40年代の板橋区」でインタビューした、近代化前の蓮根で生まれた方(1935年=昭和10年生まれ)の証言によれば、戦後の話だが、それまで農作業しかしたことのない青年をすぐに採用したという。地元の青年を積極的に採用することで、地域との折衝に役立てたいという会社の方針ゆえのことと証言されていた。

それだけ会社側も神経を使っていたことがうかがえるが、それからさらに40年以上、都電の時代を経て、私が成人してからもあの匂いは志村坂の象徴であり続けた。2000年を迎える頃に環境マネジメントシステムなどの考え方を取り入れて、脱臭装置を開発・導入した模様で、近年は匂いが全く外に漏れ出さない。

志村坂の拡幅は、国道整備事業に伴い1935年(昭和10年)ごろに工事が行われたとみられる。

☆旧道清水坂の対比写真

野尻さんは新道で撮影した都電写真のみならず、旧道清水坂で茅葺き屋根の家を見つけて撮影して、「東京都電風土記」310ページに掲載している。その場所は、現地を訪れたらすぐにわかった。野尻さんの写真で右隅に写っている看板は既になくなっているが、その家の表札は今でも看板の名前と同じだった。右端の屋根の雨どいはそのまま使っている。
「東京都電風土記」310ページ掲載写真(1963年撮影)
位置でフレーミングを合わせる。茅葺き屋根の家屋があった場所は
中央の白い3階建て付近。(2016年7月)
板張りの垣根がブロック塀に代わっているが、その塀も苔むしているあたりに歳月がにじみ出ていた。

☆「富士大山道」分岐点
 
清水坂上近くの民家前には「都電春秋」でも紹介されている「ふじ大山道」の標と庚申塔が建てられている。家屋の左右とも道路で、右は清水坂、左が富士大山道である。富士大山道は崖線縁を西へ進み、スーパーマーケット三徳の敷地、現在の志村二丁目交差点、ファミリーレストランの敷地を経て、赤56系統のバスが使う道の北側にある志村城址・志村小学校下を降りていき、志村小学校バス停付近から前野町五丁目に至る道筋だったと伝えられている。

富士大山道分岐を示す道標。右の庚申塔には
「是ヨリ富士山大山道 練馬江一里 柳沢江四里 
府中江七里」と記されている。(2016年10月)
板橋区内では上宿現在の大和町交差点付近)から西へ向かう富士見街道(富士見通り、練馬道)が、富士講参加者がいた道筋として知られているが、志村からも富士浅間神社や相模の大山阿夫利神社へ向かう街道が分岐していた。板橋区の町名としてよく知られている川越街道沿いの「大山」も、相模大山阿夫利神社参詣道が分岐する地点という意味合いである。

すなわち現在の板橋区内では

・中山道板橋上宿
・中山道志村
・川越街道上板橋宿

の少なくとも3ヶ所から富士山・大山参詣道が分岐していた。それだけ信仰が厚かった証である。



☆志村坂付近で撮影された写真が見られるメディア

(1) 個人ブログ 41系統巣鴨行き4051(日の丸掲揚)

(2) 書籍「東京都電の時代」108ページ
書籍「都電が走った昭和の東京」145ページ
41系統巣鴨行き7045(旧塗色) 撮影:吉川文夫 195510
※以上2枚は同一写真

(3)「板橋区公報 第106号 昭和30625日」(板橋区役所、1955年)
41系統志村橋行き4000形(旧塗色) 19556

(4) 書籍「東京都電風土記」310ページ
41系統巣鴨行き4064 撮影:野尻泰彦 19633

(5) 図録「トラムとメトロ」54ページ
41系統巣鴨行き6128 撮影:吉川文夫 196011

(6) 書籍「都営交通100周年 都電写真集」137ページ
41系統巣鴨行き7045 撮影:阿部敏幸

(7) 書籍「都電が走った街今昔Ⅱ」(JTB1998年)112ページ
41系統巣鴨行き6281? 撮影:田中登 19653

(8) 書籍「懐かしい風景で振り返る東京都電」117ページ
41系統志村橋行き6121? 撮影:楠居利彦 19665