2016年12月12日月曜日

長後町一丁目(二軒家、東坂下二丁目)2016

二軒家停留所。
長後町一丁目 巣鴨方面乗り場付近。
(2016年5月)

長後町二丁目を出発した電車は、東京信用金庫の看板を左に見ながらさらに南へ進む。やはり1分もしないうちに道が左方向へゆるくカーブを始める。そこに弓なり状の安全地帯があり、停車する。長後町一丁目の停留場である。その先には蓮根・西台方面に向かう都道446号長後赤塚線が広い幅員を持って右へと分かれている。左方向にも浮間(北区)方面に向かう道路があるが、かなり細い。

一方、巣鴨方面から来る志村橋行きの電車は都道446号線に達する手前の安全地帯に停車する。すなわちこの停留場は巣鴨方面と志村橋方面が交差点の南北に離れた構造である。志村橋行き電車の進行左手には大畑伸銅所の工場と、わずかながらの商店が交差点まで続いている。現在のバス停でいえば、巣鴨方面行き乗り場は「二軒家」、志村橋方面行き乗り場は「東坂下二丁目」に相当する。三軒家と同じく、街道の脇に家二軒だったのであろう。

東坂下二丁目停留所。
長後町一丁目 志村橋方面乗り場付近。
(2016年5月)
☆二丁目か一丁目か

ふるさとの停車場路の
川ばたの
胡桃の下に小石拾へり

石川啄木が上京や北海道に向かう際に赴いた日本鉄道の好摩駅(岩手県岩手郡巻堀村。玉山村を経て現在は盛岡市に併合)前の道筋を詠んだこの一首を目にするたびに、私は「ふるさとの停車場」を持たない人生を歩むことになったという、やや苦味ある感慨を抱く。

少なくとも人生の大半において使わざるを得なかった、東武鉄道の某駅ではない。結構嫌な思いも経験しているし、バスの都内均一定期券に変えた時は心からせいせいしている。地下鉄の蓮根駅も、どこか違う気がする。

私にとって、“ふるさと”を感じられる交通機関の停車場は、鉄道の駅とはいえないが、長後町一丁目の都電停留場が唯一だろう。まだ記憶力もおぼつかない頃、祖父母に手を引かれて幾度か降り立ったのみではあるが。

あまりにもおぼろげな経験であるがゆえに、長い間その停留場は「長後町二丁目」と思い込んでいた。後年、母親が「二丁目のほうでしょう。」と話していたことや、昔の地図では停留場の名前を付すためにアバウトな描き方になっていて、長後町一丁目、二丁目とも実際の位置よりもやや南方向に長く記されていたことが影響している。日本住宅公団が作ったパンフレット「昭和31年第4回募集 公団賃貸住宅の御案内 蓮根住宅」でも、巣鴨駅から都電25分、長後町二丁目下車、徒歩8分と記されていて、添えられた地図では都道と分岐する位置の停留場に「都電長後町二丁目」と記されている。

今回廃止50周年企画を思い立ち、「都営交通100周年 都電写真集」に掲載された実測距離を付した路線図や「日本鉄道旅行地図帳」掲載の営業キロ程の数値を確認したことにより、長後町二丁目はバスの三軒家に相当して、当時の私の家からはかえって離れてしまうことにようやく気づいた次第である。

住宅公団のパンフレットを改めて見たところ、当時蓮根三丁目にあった東京渡辺製菓(コビト)工場の場所に「蓮根二丁目」と記されていた。公団の人も位置関係をよく把握できていなかったのであろう。工場と水田しかなかった土地に初めてまとまった団地を建てようとしていたのだから、町名案内もあまり整備されていなかったものと推察する。
二軒家停留所付近にて。(2016年6月)
☆“ミルクホール”の奇跡

長後町二丁目・一丁目付近で都電を撮影した写真は残されていないものと、長年思い込んでいた。他から都電目当てで来る人はまず志村橋に行くだろうし、台地側にも電車をきれいに撮れる場所はたくさんある。一方、当時の地元で電車にまでカメラを向けようとする人はおそらくほとんどいなかっただろう。都電の中でもあまりにもマイナーな停留場で、廃止も早かったから仕方がないと、この件について思いを馳せるたびに肩を落としていた。

ところがこのブログを準備するために検索をかけてみたら、41系統の写真が何枚か掲載されている個人ブログを発見した。撮影場所に関する記述はなく、車両番号だけが記されていて、気をつけて見ていないと流してしまいそう。そのうち2カットは背後に「東京信用金庫」の看板が写っている。四隅に日の丸が掲げられているから、おそらく好天に恵まれた祝日の撮影であろう。そこで東京信用金庫について調べたら、現在でもそのまま営業していてホームページがあり、昭和31年(1956年)6月に志村坂下出張所開設と記されている。この時期ならば都電の開通とも関連していそうであり、Googleマップで調べたらまさしく東坂下二丁目の、中山道に面した位置であった。

この二枚の写真はいくらか位置をずらして撮影されているが、片方は道がゆるくカーブしていて、巣鴨行きの電車右側に「ミルクホール」という看板を掲げた店舗が写っている。拡大したところ屋号や電話番号も記されていた。「ミルクホール」とは1960年代でも既にかなり時代のかった言葉だが、喫茶軽食店とみられる。もしかしたら、の思いを抱えつつ、20166月に50年後の現地に出向いたら、果たして同じ屋号の店舗が都道交差点前に建っていた。ただし既に廃業している。近づくと、後年は和食系かもしくは小料理屋に業態転換したとおぼしきデザインの扉が取り付けられていた。

その後7月に再び訪ねてみたら縄が張られていて、不動産会社による「売物件」の札が掲げられていた。少しタイミングがずれていたら建物が取り壊されていて、おそらく気づかなかったであろう。半世紀の時を経て対面できた、長後町一丁目電停付近の姿である。
2016年の模様を紹介する。
41系統志村橋行き6115撮影地付近。(2016年7月)
41系統巣鴨行き4073撮影地付近。バス右の茶色の建物が「喫茶軽食ミルクホール」、
白いトラック付近が長後町一丁目巣鴨方面乗り場。(2016年7月)
長後町一丁目停留場の巣鴨方面乗り場はゆるいカーブの途上に設置されていて、安全地帯も弓なりになっていたことがブログ掲載写真からわかる。現地に立ち、東京信用金庫の看板を目印にしてカメラを構えると、シトロエン販売店前の三角地帯上が撮影ポイントであった。

ここから西に分岐する都道446号線は、昭和初期の地図でも広い幅員を持った計画路線として水田の中に記されている。言うまでもなく、付近の化学工場で生産された製品を安全に運搬するために計画されたことであろう。gooサイトの「昭和初期の航空写真」では、1947年(昭和22年)の段階で既に御成塚通りまで現在の幅で開通していることが確認できる。1963年の航空写真では後述の東京渡辺製菓工場前まで広い道が延びている。蓮根団地北はまだ細い道路であるが、私の記憶と一致している。その時代は現在の西台駅南交差点(ダイエーの南、魚屋路=ととやみち=西台駅南店の角)が行き止まりで、その先は水田であった。

昔は団地の北のはずれに、元禄時代の1698年建立と伝えられる馬頭観音が時の流れを伝えるのみであった。高島平団地建設中の1970年(昭和45年)に西台駅の先まで道路(都道447号西台赤羽線)が延びて現在の形になる。今は練馬区の谷原までつながり、高島平西部および埼玉県内の物流施設から来るトラックが頻繁に往来するほか、高島平操車場と志村営業所の間を回送するバスの通り道としても利用されている。


☆“長後町のコビト”

前記のブログに掲載された写真では、私が下車した志村橋方面の安全地帯はよく目を凝らしても確認できない。志村橋方面は乗車する客もあまりいないだろうから、安全地帯は設置されていない可能性もあると考えたが、「都営交通100周年 都電写真集」137ページに、諸河さんが撮影した41系統すれ違いの写真が小さく掲載されていることに気がついた。安全地帯に電飾式の時計つき停留場標が建てられていて、「コビト前」と大きく記した広告が掲載されている。紛れもなく長後町一丁目の志村橋方面乗り場、“ふるさとの停車場道”である。諸河さんが撮影して間もない頃から、幾度かここで電車を降りていたとみられる。

その場所の軌道は直線であるため、志村橋方面乗り場は都道446号線の南側にあったことが確認できる。現在は車道の真ん中で、車の通行も多く、同じアングルを撮ることは実質不可能である。交差点から南側を撮影した写真を紹介する。
白い車の後方、黄色の車線標識あたりが志村橋方面乗り場跡とみられる。
(2016年6月)
コビトは1956(昭和31年)に当地(蓮根三丁目)に工場を建てて進出した「東京渡辺製菓」の製品ブランド名で、後に正式企業名となっている。都電営業当時はチューブチョコレート(ペースト状)、「おそ松くん」のキャラクターチョコレートなどを販売していたという。都電廃止翌年の1967年(昭和42年)にウィスキーボンボンを入れたチョコレートを開発して、ヒット商品に育てた。

私のつたない記憶では幼い頃、都道446号線の電柱にはコビトの黄色い広告看板が蓮根団地から中山道交差点まで延々と取り付けられていた。化学合成系の工場が多い土地柄で、蓮根団地近辺にも藤化成、山之内製薬といった企業が工場を置いていただけに、食品系はかなり異色だった。…と勢いにまかせて記したが、万一記憶違いの場合はご容赦いただければ幸甚である。

住居表示実施で、東京渡辺製菓工場のある地域は蓮根三丁目から坂下三丁目に変更された。すなわち長後町だったことはないのだが、1970年代初めごろはまだ「長後町のコビト」で通じていた。コビトはその後経営悪化により1980年(昭和55年)に製菓業から撤退、工場も閉鎖され、跡地には住宅供給公社が団地を建設している。

都電停留場に戻る。志村橋方面行き乗り場の南側には戦前から「大畑伸銅所」の工場が広い敷地を有していた。工場の跡地には住宅公団が団地を建てたが、「坂下二丁目けやき台ハイツ」は感心しない。荒川低地側の物件に“台”をつけては文字通り“台無し”であろう。
大畑伸銅所跡地(右の団地)。銅加工も板橋区の主要産業であった。
(2016年6月)
その南端に江戸時代初期まで蓮沼村の南蔵院があったと伝えられていて、芝浦工大付属高校の脇に記念碑が建てられている。度重なる荒川の決壊、洪水の被害に耐えかねて高台上に移転、後に村落も移転した。現在の「蓮沼町」のもとに相当する蓮沼村の名前は、このあたりに自生していたハスが由来であろう。

幕末に上蓮沼村となり、明治時代に志村に併合されて大字上蓮沼となり、さらに西隣の志村大字根葉(ねっぱ)と一字ずつとり、志村大字蓮根としたことが蓮根町の由来である。

蓮根で最初にできた集落は根葉側の南西、医王山蓮華寺(いおうざんれんげじ。後の都立志村高校下付近)であるため、移転で集落を失った中山道沿いは、再び街ができると長後・坂下などの地名で区別された。地下鉄蓮根駅の計画・建設当時は「本蓮根」の仮称が用いられていたことが、当時の地図から確認できる。蓮根団地、商店街ともにシンボルは「ロータス」である。もともとは根っこと葉のほうであったはずが、いつのまにか花を頂戴している。
個人ブログ掲載 41系統回送車4065撮影地付近と推定される地点。(2016年6月)




☆停留場データ

開設日:1955年(昭和30年)610
設置場所:<巣鴨方面>板橋区長後二丁目3付近(現・板橋区東坂下二丁目11付近)
<志村橋方面>板橋区長後一丁目31付近(現・板橋区坂下二丁目26付近)
志村橋からの距離:営業キロ0.6、実測キロ0.635
停留場形式:南北に分かれて安全地帯設置
停留場標:時計つき電飾型

☆本停留場付近で撮影された写真が見られるメディア

(1) 書籍「都営交通100周年 都電写真集」137ページ
41系統巣鴨行き611341系統志村橋行き6132? 撮影:諸河久

(2) 個人ブログ 41系統志村橋行き6115(日の丸掲揚)

(3) 個人ブログ 41系統巣鴨行き4073(同上)

(4) 個人ブログ 41系統志村橋行き6122

(5) 個人ブログ 41系統巣鴨方面回送車4065