2016年11月5日土曜日

都電本ガイド(9)都電が走った街今昔・都電が走った街今昔Ⅱ



(林順信・著、JTB1996年、「Ⅱ」は1998年)

JTB(日本交通公社)が「JTBキャンブックス」のブランドで出版している鉄道書籍シリーズの初期作品です。「都電の消えた街」(大正出版)の1990年代、平成初期版と位置づけられるでしょう。1996年に出版され、好評だったのか1998年に続編の「Ⅱ」が制作されました。この記事では便宜上「第1集」「第2集」とします。

「都電の消えた街」では、鉄道写真を本職とする諸河久さんと林順信さんのコンビでしたが、このシリーズでは他のジャンルで活躍する、当時40歳前後の写真家と林さんのコンビで、かつて林さんが都電の写真を撮影した地点を訪ね、定点対比撮影を試みています。

林さんの名調子やぼやきは相変わらずですが、このシリーズでは何といっても現代の風景を撮影したカメラマンたちのコメントが面白いです。林さんの普段の行動や人柄までも伝わってきます。

林さんは撮影に際して、都営バスが運転されている場所はなるべくバスを入れてほしい、鉄道との立体交差ではなるべく電車を入れてほしい、アングルはできる限り正確に合わせてほしいと注文なされていたようです。

建物も道路もほぼ都電写真の頃そのままに残っていて、簡単に撮影できるところがある一方、都電の安全地帯が交差点の真ん中になっていて、休日の朝でないと危険で撮影できない場所、当時の道路や建物は残っていても撮影場所にはフェンスが張られているなどで背伸びしたり肩車したりで撮影した場所、高速道路の建設や道路拡張、再開発などで大きく姿を変えているが、一軒だけ当時の家屋が残されている場所、林さんも含めて最初に目星をつけた地点が間違えていて、交番や近所の人に教えてもらって定点を探った場所、手がかりが何もなく、林さんの記憶のままに撮影せざるを得なかった場所、橋や河川はそのままでも、写真に記録された曲がり具合を一致させるために幾度も撮り直しした場所(デジカメの時代ならばその場でモニターを見て修正可能だったでしょう)、工事現場や皇宮警察の許可を取って撮影した場所、足が工事現場に踏み込んでしまい怒られた場所など、「ポスト都電」の事情は様々です。

取材時点では都営12号線(大江戸線)や首都高速外環状線の工事中でしたが、第1集の時は工事現場の監督が快く入れてくれても、第2集の取材の頃には地下鉄工事現場をみだりに撮影させない方針に変わっていて、許可を得るまでに苦労したなど、当時の重大事件の影も見て取れます。

札ノ辻(港区)では、あまりにも車が多いため、JTBの編集長が横断歩道の信号周期を長時間観察した挙句「空白の三秒間」を発見して、盗塁なみの早業でしとめたというお話はウケました。

「どこがおもしろいのかねえ。」と、市井のおばあさんのつぶやきが聞こえてきそうではありますが。

この編集長さんは撮影現場の苦労もろくに知らないでダメ出しすることもあったらしく 最後の撮影日では寒風の中風邪でヨレヨレになって現れたとカメラマンに記録されています。

簡単に撮影できる場所では注文もぜいたくになってきて、バスを入れたい、和光の時計塔が同じ季節の同じ時刻を示す時間を狙いたいなどと言い出して、カメラマンは幾度も出かけるはめになったみたいです。林さんは撮影に同行していても、たまたま目に止まった店舗などがあるとその場で入り、そこの人にお話を聞くなど、後年のテレビ散歩番組のようなこともしていたようで、官公署に近い場所で緊張しつつ撮影していたカメラマンを慌てさせた一幕も記されていました。

その一方でカメラマンに記憶違いを指摘され、確かにその通りのため、林さんが原稿に付け加えた跡が明確に見られる記事もあります。「レンズの冷徹な目」といった表現には、その悔しさも含まれているように見受けられました。

林さんは撮影の合間、カメラマンたちに行きつけのお店、老舗でも決して派手ではない店のうなぎや天ぷらをごちそうしていた模様です。単に喜ばせるだけではなく、「真の本物、一流を知ってもらいたい。」という願いがあったことでしょう。

その才覚は戦後、というか昭和30年代以降生まれの人は年を重ねてもほとんど持ち合わせていないでしょう。他の世界で、している人はしているとは思いますが。今の若い世代は、そのような行動をむしろ「重荷」と感じるでしょうか。

都電の車両そのものよりも東京の街並みの変化に力点を置いた編集方針ゆえ、林さんの写真は「引き」のカットがほとんどです。「都電の消えた街」よりも判型が小さいため、メカニックな面がお好きな人にはつまらないという印象を与えるかもしれません。

宮脇俊三さんの監修で、キャンブックスシリーズ最大のヒット作品となった「鉄道廃線跡を歩く」の路面電車版を狙っていたことでしょう。

改めて読み返してみると、都電廃止から30年後の1990年代にはまだほとんど変化していなくても、50年後の2010年代にはなくなってしまった、あるいは形を大きく変えた建造物や風景が少なくありません。私がここ12年に見かけたものだけでも、東急日本橋店、改築前の東京駅、肉の万世脇を通る中央線201系電車と背後の石丸電気、渋谷駅東横線ホーム、東池袋四丁目の都営バス折り返し場、新庚申塚、上野の聚楽、墨田区太平町の精工舎など、既に懐かしい風景となってしまいました。その意味で池袋駅の西武百貨店とパルコの建物は、よくここまで持ちこたえています。大通りの街路樹が成長して視界が狭くなったことには歳月を感じますが。

路線バスが全て幕を使っていたことも既に昔語りとなりました。林さんは歩道橋反対派ですが、上野広小路で撮影する際に登った歩道橋も、1990年代にはそのまま残されていたものの、今では撤去されています。

林さんが一貫して危惧していた、野放図な開発や高層建築による人間の心を無視した“景観の破壊”は、1990年代よりもむしろ21世紀に入ってからのほうが顕著になりました。バブル期および崩壊後もしばらくの間、都心の空はまだまだ広かったのです。湾岸地域のタワーマンションをはじめ、これから人口が減ろうとするのに工場や鉄道施設などの撤退で広い土地ができるとどこでもすぐにマンションを作ろうとする姿勢、テレビ局や公共施設を湾岸の埋立地に移転したがる姿勢は、やがてとてつもない負の遺産となりかねません。

個人的には、わずか数年前まで多くの寝台特急・急行列車が昼間整備される基地だった品川駅北の客車区が「いらない」とされ、ただでさえもあの地域に密集している超高層ビルを核とした再開発が予定されていることに怒りや悲しみを通り越して、寒気さえ覚えます。
正直なところ、もうあの会社群の鉄道にはなるべく乗りたくありません。

林さんはこのシリーズの際にはまだまだ元気いっぱいで、カメラマンたちを驚かせていましたが、2002年に同じくJTBから「都電百景百話」の原点に戻ったような構成の「東京都電慕情」を出版した後に体調を崩され、2005年に亡くなられたそうです。(「ぽこぺん談話室」の情報による)

一方JTBキャンブックスは、都電に続いて全国各地の市電・路面電車写真の定点対比本を出版しました。「神戸市電が走った街」は購入しています。北九州市は現役走行時代の写真が格段に新しくきれいで、私ももう少し撮影しておけばよかったと感じた次第です。

志村線については第1113ページに板橋駅前停留場、第2110ページに新庚申塚、111ページに志村一里塚(小豆沢町として掲載)、112ページに志村坂付近の写真が掲載されています。もちろん林さんが都電写真の撮影を始める前で、田中登さん撮影の写真を使っています。

板橋駅前の記事では、洋画家の中川一政が1932年(昭和7年)、10年ぶりに当地を訪れたときの印象が紹介されています。そのまま、中山道新道開通当初の景観を物語っています。

「ゴッホでも描きさうな陸橋」とは、省線電車の上を越える橋のことと思われます。「アカシアの並木が出来た。」より、新道の“ロードベイ”は戦前からあり、地下鉄の工事が始まるまで道路景観を構成していたことが確認できます。

ロードベイ的な発想はこの時代の流行というか斬新な印象を与えるもので、常盤台住宅地や同時期に開発された住宅街で積極的に取り入れられたともみなせます。

「夕焼け小焼け 瓦斯タンク。童謡詩人でも歌ひさうな景色」

については、本ブログの板橋駅前2016の記事に載せた写真で十分でしょう。
しかし、この場所で撮影された都電写真の左に並ぶ商店や家屋の背後が崖のような急坂地形と見抜ける方はいらっしゃるでしょうか。


2集の表紙、銀座の和光前の写真では

「前田クラッカー」

のネオンサインが輝いています。

堺の町工場から出発した製菓会社が、銀座の一等地に広告を出せるまでになれたのは、ひとえに藤田まことさんのおかげなのでしょうか。

1990年代には栃木県内の新幹線車窓から、前田製菓工場の看板を見かけることができました。

2集では巻末に、田中登さんによる営業所(車庫)概要解説および浅野明彦さんによる戦後全盛期の都電・トロリーバス全系統運転区間について、1998年時点の路線バスおよび荒川線でたどる際のガイドが掲載されています。

営業所解説は判型の制約により文字も写真も小さいものの、要点コンパクトにまとめられています。田中さんは最終日の装飾電車についても記録しているため、その面の言及もなされています。最終日セレモニーについては、全く記録する気になれなかったと述懐している方もおいでのようで、都電が好きでも人それぞれということを改めて感じます。

後継路線バスガイドは後年も都営交通の基幹路線として位置づけられている系統(6系統→都0116系統→都02など)、終点延長や位置変更などマイナーチェンジはなされたが都電区間はほぼそのまま乗れる系統(7系統→四972016年現在は品97、23系統→門33、28系統→東22など)がある一方で、乗客の流れが変化し幾度も乗り継ぎを強いられる系統(8系統など)、途中で極端に本数を減らされている系統(17系統→都02乙など)もあり、明暗が分かれています。区間の一部で路線バスが全く運転されなくなった系統もあり、本ブログで取り上げた志村線18系統・41系統のみならず、純正都電ファンの間で絶大な人気を誇る1系統でさえも、鉄道路線が近隣に複数並行していることもあり、一部区間で空白地帯ができています。

調査・執筆時点では営団南北線の全線開通前、都営12号線(大江戸線)の開通前で、今後変化が予想されるとコメントされている系統もあります。しかし大江戸線の開通時(2000年)にはその予想とはかなり異なる対応がなされました。本稿で危ぶまれていた23系統後継の門3328系統後継の東22などはほぼそのまま運転を続けている一方、11系統後継で、一時は都03として基幹路線扱いだった新宿駅-月島-晴海埠頭線は新宿駅-四ッ谷駅間が打ち切られ、かえって不便になったと乗客を減らし、しまいには「はとバス」に放り投げてしまった模様です。文京区でも大江戸線とは直接並行していない水5935系統代替)が廃止され、2016年現在白山通りの白山上-文京区役所間は路線バス空白地帯となっています。旧・掃除町の八千代町、小石川柳町、初音町にはもはや電車もバスも来なくなってしまいました。

地下鉄ができると並行路線はただちになくなるというものでもなく、特に営団→東京地下鉄の路線の場合は有楽町線と都02乙(17系統代替)、南北線と王5727系統併用軌道区間代替)、副都心線と池86(トロリーバス102系統代替)など、同区間の都電・トロリーバス後継系統残す事例が少なくありません。王572016年現在でも運転を続けられている理由は豊島五丁目団地まで延長されているからでしょう。王子駅では都営バスの姿が目立ち、国際興業バスは隅から発車しますが、赤羽駅では国際興業バスの黄緑色が大量に発着していて、都営バスは王57のみがいかにも肩身が狭そうにしている姿が印象的です。往年を知らない若い人たちは、なぜこの系統だけが国際興業バスではないのだろうと首をひねるかもしれません。そうかといって赤羽岩淵駅終点ではお客がつきませんし、折り返しも困難でしょう。

「都営バス資料館」によれば17系統後継の都02乙は、池67とされていた1980年代末に早稲田-上野広小路間の不忍通り経由58(現在も営業中)と統合して、池袋駅-護国寺-千駄木町-上野広小路に改めるという計画を立てられたことがあったそうです。それは都電の臨時20系統のルートそのままで、ようやく都営交通の正式路線に昇格できるチャンスだったのですが、同時に地下鉄春日駅から南の路線を全廃する予定だったため、文京区議会の強い反対にあい撤回されたといいます。個人的にはそのほうがはるかに便利なのですが。言問通り経由の上60は本数が少なくて使いづらいです。

本表は都営バス優先で解説されていますが、系統によっては東急バス、京王バス、京成バス、国際興業バス、関東バスを登場させています。30系統後継路線について、都営バスは乗り換えがあるため直通の京成バスを勧めていました。非鉄道系バス事業者が都電系統の後継となっている路線は、14系統末端(杉並区役所-荻窪駅前)の関東バスと、当ブログで紹介した志村線仲宿-志村橋間の国際興業バスです

<追記>

2集の表紙裏見返しには、おそらく交通局の電車案内図から起こしたと思われる1951年(昭和26年)時点の系統図が掲載されています。一之江26系統運転当時ということで選ばれたと考えられますが、このをよく見ると西武新宿駅、西武新宿線が記載されています。

西武新宿駅の開業は翌1952年(昭和27年)325日で、本図の時点では高田馬場終点の「西武村山線」が正当です。