2016年10月26日水曜日

都電本ガイド(19)都電跡を歩く

(祥伝社新書、2010年)

この本も「ぽこぺん談話室」でひどいと評されていました。他にも、皮肉まじりにツッコミを入れるブログがあります。
本書についても芳しくないレビューとなりますゆえ、著者名は伏せてお話いたします。

☆「出版されてしまった」事実と向き合う

本書著者は、都電に関しては荒川線を入口とせざるを得なかった世代の人です。東京生まれでもありません。荒川線沿線のタウンガイドサイト編集の仕事が契機になったと記されています。

しかし、内容は…。
事実関係や推論、思考方法をうんぬんする以前に、文章がねじれていたり、唐突に他の話題に飛んでいたり(このブログにも言えるかもしれませんね。他人のことはうっかり申せません。)で、本を執筆する基礎的な部分から問題があるように見受けられました。

都電の系統も停留場の名称も、著者が得た莫大でも未整理の知識を披歴するための「出汁」に使われているような感が、正直いたします。お肉や野菜を切り、水を張った鍋に入れた段階のシチュー(火をかけて煮込み、調味料などを入れる前)を飲んだような読後感を持ちました。

この内容ならば都電という枠を外して、若い世代から見る東京変遷論とするほうがよほどすっきりするでしょう。

いくつかの章は、明らかに現在の地下鉄路線を基準にして系統の選定を行っています。「21841系統」はその最たるもので、「373541」とするほうがより合理的に説明できることに気がつきませんか?

それに今は目黒駅が起点ですから、三田停留場にこだわらず、5系統→田村町一丁目→35系統→巣鴨車庫→41系統とするほうが実態にあっていませんか?
5系統と237系統が合流する芝園橋は三田の隣です。

板橋区についての以下の記述は看過できません。

<引用>
「高島平団地ができる直前まで、板橋区には水田が広がっていたわけですから、戦前の板橋区で東京市電の利用者がそんなに多かったようには思えません。」
<引用終了>

は………???
著者さんは「板橋区史」を参考文献にあげていますよね?
昭和10年代の板橋区議会議員が、中山道の通勤事情がいかに逼迫しているかについて陳情書で切々と訴えている文章は目に留まりませんでしたか?
失礼ながら、どこをどのように読んだか教えていただきたいものです。
議員さんが悲しみのあまり、草場の陰から出てきかねないですよ?
いささか揚げ足取りをしますが、水田ならば今でも赤塚地区で少しですがありますよ?

<引用>
「昭和301955)年開業時には、板橋区と境を接する、当時の埼玉県戸田町や川口市などの住民にとっても、いまだ重要な足でした。」
<引用終了>

日本語は正しく使いましょうね。
開通したてで「いまだ」は変だと勘が働きませんか?
現代の地下鉄しか頭にイメージできないから「いまだ」とつい使ってしまうのです。

「昭和30年に開業すると、それまでバスにしか頼れなかった、板橋区と境を接する、当時の埼玉県戸田町や川口市などの住民にとって、便利で重要な通勤の足が加わりました。」

と読み比べてみてください。
さらに、その時代は戸田町や川口市自体も工業の町でした。工業に従事する人は定時出勤や給料などとの兼ね合いより、わりと近くからの通勤者が大勢を占めていたと考えられます。すなわちほとんどが地元暮らしです。
あ、お若い方ですから「キューポラのある町」などご存じないですよね。失礼しました。

バスで戸田橋を越えて東京都に入り、さらに都電に乗り換える埼玉県民は、板橋区内工場通勤を目的とする人ももちろんいたでしょうが、京浜東北線の駅から遠い地域に住んでいて、バスや都電で板橋区を通り越して都心方面まで通勤する人も少なくありませんでした。工員のみならず医療系やホワイトカラー系の職業従事者も利用していたと思われます。

京浜東北線を管轄する東京鉄道管理局→東京北鉄道管理局浦和電車区(東ウラ→北ウラ)はまだできていない時代です。(1962年=昭和37年開設。北ウラへの変更は志村線廃止後の1969年。)多くの電車が東十条か赤羽で都心方面に折り返していて、埼玉県内は本数がかなり少ない状態でした。東北本線・高崎線の普通列車(電車のみならず、青森行き、秋田行きなど長距離の客車列車も数多くありました)もほとんど浦和駅に停車しなかった時代でもあります。

板橋区内が目的地ならば都心直通のバス路線から都電に乗り換えると料金・所要時間ともかえってロスが出ることにお気づきになれませんか。
あ、お若い方ですから当時のバス路線図などご覧になれていないですよね。失礼しました。「交通局50年史」に掲載されているのですが。

細かい点の指摘はきりがありませんし、当方もくたびれますからこのあたりまでにいたしましょう。

系統番号の都電乗車世代としては、「この本が出版されてしまった」現実を少し重く受け止め、今後どのようにして正確な歴史を伝えていけばよいか考えていく姿勢が求められていると思います。

他の項目でも取り上げますが、「三田線」という命名はやはり都電から地下鉄への変遷当時を知らない世代の人に誤解を与えてしまうことが、この本で明確になりました。

さらに、旧王子電軌の路線を「都電」と案内し続けている現状も、同様の誤解を与えるもとです。荒川区では「都電の街」をPRしていて、通りや商店の名前にも「都電」が多く冠されていますから、今から「王電」に戻そうと提案しても怒られるでしょうが、この種の本が出てしまうまで矛盾を放置してきた姿勢が、いま改めて問われていると感じます。

巻末には莫大な数の参考文献が掲載されています。
それを見て、考え込んでしまいました。

このブログでは「東京の満州」「おばあちゃんの原宿」といった「レッテル貼り」につながりかねない言葉について気をつけるよう、一貫して主張してきましたが、もしかしたらこの方は「文献コレクター」気質をお持ちかもしれません。

多くの論文を集めるだけ集めて、その本質まで読み込まずに積み上げていくタイプの人を評する言葉です。

著者がこれらの文献に目を通したことは事実でしょう。
しかしその文献の本質を見極める力は、残念ながらまだ備わっていないのではありませんか。

「懐かしの都電 41路線を歩く」の著者についても、路線跡を歩いたことは事実でも、見るべきところを見落とすような歩き方をしていらしたため、あのレベルの本ができあがったものとみなせます。

その一方で。
威張って書くことが格好いいと勘違いなされている年輩の人につける薬はもはやないとしても、若い人にとってはやや気の毒な世の中であることも、また否定できません。

後から生まれてきた人は、先人たちが蓄積してきた知識や経験について勉強すべき量が多くなりますし、何か思いついても、それは誰かが先にやっていると指摘される確率が上がっていきます。その中で自分の色を出して物事を調べて形にするために求められる努力は、おそらく年長世代の想像を上回るものがあるでしょう。

だからこそ、年長世代は正確な情報を残す必要があります。
著作権は尊重されるべきですが、無断転載禁止、違反と目くじらを立てるだけで、どうすれば許諾を取れるか、許諾を受けるにあたってはどのような方法でどれほどの対価を支払う必要があるかを明示しなければ、若い人には単なる意地悪としか見えません。挙句、事実と異なる出鱈目な話が世に出て広まってしまったら、それこそ本末転倒ではありませんか。

このブログもまた、許諾の取り方がわからないがゆえに、あえて回りくどく、意味がつかみづらい表現をしている箇所がたくさんあります。

著作権の問題はとかくハードルが高いものですが、著作者の権利・尊厳を損なわずに後世の人が利用できる「アーカイブ」的な面をどう担保するかが問われているように思います。

著者さんにかける言葉は、

「“まだ早い、若すぎる”(山上路夫・作「春おぼろ」より)などとは言いたくありません。私たちも年長世代からさんざん言われて、嫌な思いをしてきましたから。それでもやはり、もう少し人生経験を積んで、文献や資料を見る際の勘を養った上でこのテーマに再びチャレンジしていただければ幸甚に存じます。

それぞれの時代に、何が既にあって、何がまだなかったか。
その時代の空気感はどんなものだったか。
人々はどこに価値を置き、何を求めて暮らしていたか。
焦らずにひとつひとつイメージしていきませんか。

電車や街づくりの分野のみならず、もっと様々な世界にふれてみませんか。
都電に関する本の執筆は、それからでも決して遅くないと思います。」

著者さんの今後益々の研鑚に期待したく存じます。

<付記1>この本では、18系統の廃止について正しく記されています。

<付記2>本書著者は同時期にPHP出版の写真つき都電ガイド本を監修・執筆されています。そちらでも勉強不足を露呈しているようですが、豊島区郷土資料館で保存しているという池袋線最終運転日(1969年=昭和441025日)の写真にはしんみりするものがありました。

池袋東口商店街、西武デパート、三越の連名で「都電のみなさんご苦労さまでした」と記した横断幕を停留場に掲げていて、ゴールテープのように見えます。左の1番線では17系統文京区役所行き3107、右の2番線では臨時20系統上野広小路行き6236が発車準備に入っています。

この日は土曜日でした。
臨時20系統は日曜祝日以外の運転もあり、なおかつ最後の日まで運転されていた証拠でもあります。