2016年12月5日月曜日

清水町2016

清水町停留所。(2016年5月)
蓮沼町を発車するとゆるく右にカーブする。そろそろ家屋の数が増えてくる。旧道が左に分かれていき、小さい町工場や商店が並ぶ中、清水町に停車する。

☆志村の“谷地頭”

蓮沼町停留場跡から南に歩いていくと、ゆるいカーブの先に首都高速5号池袋線の高架が視界に入る。ここから西巣鴨まで長いつきあいになる高速道路である。町名は東側が「清水町」、西側が「泉町」に変わる。清水町交番から東側(巣鴨方面に向かって左側)に分岐する道路が旧中山道。
泉町付近。高速道路右側が出井川の谷地頭、
写真左端が旧道との分岐点。(2016年5月)
このあたりも台地上だが、板橋区の例にならって水にちなむ町名がつけられている。その水は出井川に由来する。

これまでも幾度か登場した出井川は現在の高速道路合流点から西側に開かれた谷地形に流れていた川で、志村の低地を南東側から西へ向かい、さらに北、北東とおよそ4分の3周して新河岸川に注ぐ。志村坂下付近で渡った橋は下流側に相当する。水源は谷を囲む崖から湧き出す地下水。現在は全域で暗渠化されているが、わずかながら湧水が確認できて、最も規模が大きい水源周辺は「出井の泉公園」として泉町内に整備されている。

出井川の谷は前野町近辺ではかなり急峻で、赤53のバスは見次公園脇の高速道路下交差点をボトムとする道路を、志村に向けて急坂で登る。ときわ台駅方面も上り坂になっている。近代化前は相当の流量があったことがうかがえる。

一方、高速道路下の道を中山道に向けて東に歩いていくと、谷が次第に小さくなっていく様子がはっきり見て取れる。完全に台地に吸収されると中山道につきあたる。出井の泉公園は谷地形の南側に位置している。高速道路はこの谷地形を利用して建設されていて、それが尽きるところで中山道上に移る形である。すなわち中山道と高速道路の合流点は谷地形の頭に相当して、“谷地頭”(やちがしら)ともいえるだろう。中山道は旧道、新道とも地形の変化を巧みに避けるルート選定がなされたことが、歩いていると身体に伝わってくる。

高速道路の下に入るあたりに清水町交番があり、旧中山道が左側(東側)に分岐していく。ここから南は旧道時代に建てられた家も増えてきて、かつ道路の見通しも落ちるため、西側の田畑に新たな道路を建設したと推定される。最近、板橋宿近辺の旧道にはリサイクルショップが目立つ。一番の人気商品はDVD・ブルーレイ開発でメーカーが置き去りにした「VHSビデオデッキ」で、どこの店にも山ほど積まれている。

高速道路下の新道をさらに歩くと、清水町のバス停留所が現れる。都電の清水町停留場で撮影された写真もまだ見つかっていないが、当時の地形図および周囲の状況を勘案するとバス停からそう遠くない位置にあったものと推定される。

☆東京に聖火が来た日

中山道東側、北区との境をなす清水町は西が丘のスポーツ施設にも近い。清水町バス停前交差点で中山道を越えて西側の宮本町にある「イナリ通り商店街」には、西が丘でトレーニングに勤しむ選手がひいきにしている店もあるという。その縁で地元をあげて応援活動をしていて、2013年に行われた2020年五輪招致では結果が出る前から「東京オリンピック決定」の大きな横断幕を掲げていたが、五輪招致に一貫して反対している私の目には、どこか憐憫の情を誘う光景と映った。東京に再び五輪を呼んでも、今度は板橋区など見向きもされないだろうからである。
宮本町の「イナリ通り商店街」。
自動車停車位置付近が停留場跡と思われる。(2016年5月)
1964年東京五輪で北日本を一巡した聖火は、107日に戸田橋を渡り、板橋区から東京入りを果たした。板橋区のホームページなどでは練習の様子から本番まで、多くの写真が掲載されているが、写真だけで映像は残されていない模様である。もう10年ほど後ならばランナーの後ろを追いかけるように逐一中継されていたことであろう。中継していれば、あの芸人が人気を得る前に「志村」の名を全国に知らしめる唯一の機会であっただろうし、志村橋から都電の軌道が必ず映ったはずである。各停留場の位置や様子も、本ブログでああでもないこうでもないと考察するまでもなく一目瞭然だったはずである

それを思うと“惜しい”のひと言では済まされない。東京が長年待ち望んでいた聖火が小雨に煙る舟渡、長後の工場を脇に見つつ志村の坂を登り、都心へとひたすら走る光景は、有名な国立競技場聖火台着火場面にも劣らない意味を有していたはずである。

(注)「板橋本町商店街ホームページ」では、聖火ランナーが中山道を埼玉県境まで北に向けて走ったように記されているが完全に逆である。板橋区立公文書館ホームページによれば、戸田橋のたもとで埼玉県走者から引き継ぎ、第一中継点は長後町二丁目停留場近く、第二中継点は小豆沢町の志村警察署前、第三中継点は仲宿停留場近くの保育園前で、滝野川ガスホルダーを眼前にのぞむ国電赤羽線交差陸橋上で北区担当走者と交替している。

戸田橋上での写真には反対車線を蕨方面に向かう国際興業バスが写っているため、完全通行止めではなく、ランナー通過の1時間程度前から片側通行規制をかけていたとみられる。しかし都電はその時間帯には運休していたのではないだろうか。

再度東京五輪が開かれると、聖火はどのあたりを通るかおおよそ想像がつく。奥多摩や島嶼も回るものとみられる。しかし、板橋区が省みられることはまずないであろう。その模様はハイビジョン映像で中継されて、後になっても繰り返し流されるだろう。それは、板橋区を通った聖火が人々の記憶から消去され、「幻」となることを意味する。人の心とはそういうものである。

1964年東京五輪の前には、東京がそれまで大切にしてきたものが多く犠牲になり、姿を消した。路面電車などみっともないという“感性”のほうが進歩的ともてはやされていた。

松本隆さんは、また東京の街が五輪で姿を変えてしまう様子は見たくないと言い東京を離れたが、それはあれだけの功績を残した特殊才能の持ち主だからこそできたこと。板橋区に埋もれて生涯を終える凡人は、唯一の輝かしい記録が風化する様に嫌でも立ち会わなければならない。

2018年7月追記>

2018年7月に、東京都は五輪聖火リレーのあらましを発表した。
それによれば都内の全市区町村を回るそうで、板橋区が無視される恐れはひとまず心配せずに済む模様。1964年大会では4箇所分散で東京都入りしたが、2020年大会は分割を行わずに埼玉県から入るというから、今度は川越街道ルートが取られるだろうか。23区全てを通り、都心の名所をひと通り回るという条件を勘案すると、都内リレーは板橋区の川越街道から始める方法が最も賢いと考える。

その一方で、すさまじいほどに異様な夏の気候が定着してしまうと、無理に開催して何らかの大事故が発生したり、大規模な災害に遭遇したりすれば日本開催のみならず近代五輪そのものが今後維持できなくなってしまう恐れがある。聖火が板橋区を通ることよりもはるかに重大な問題と懸念している。



☆停留場データ

開設日:1944年(昭和19年)105
設置場所:<巣鴨方面>板橋区志村清水町450付近(現・板橋区清水町45付近)
<志村橋方面>板橋区志村清水町248付近(現・板橋区宮本町14付近)
志村橋からの距離:営業キロ3.4、実測キロ3.446
停留場形式:不明
停留場標:不明

☆本停留場付近で撮影された写真が見られるメディア
20169月現在未発見