2016年10月19日水曜日

三田線と名づけられた日<2019年5月 訂正・おわび追加版>

このブログでは最初に、「都電志村線は、実質的に史上唯一の、板橋区のための鉄道路線だった。」と記しました。正確に言えば地下鉄も最初のうちは“板橋区の鉄道”でした。

都営地下鉄6号線は1978年(昭和53年)71日に「三田線」と改称されました。
このブログを準備するにあたって「交通局100年史」を眺めていると、改称の際に駅で掲示されていた、筆文字で浅草線、三田線と大書されたポスターのサンプルに目が止まり、忘れかけていた記憶を思い出しました。

1978630日をもって、板橋区の鉄道はそのアイデンティティを喪失してしまった。
私は今でもそう考えています。

交通局10号線(新宿線)の最初の区間の開通日が決まった時に、地下鉄に路線名をつけようと思い立った模様です。都営だけで3路線目になること、さらに都市交通審議会答申でつけられた番号をそのまま案内に使っていると、なぜ営団と名前が違うのか、どうして1号線と6号線なのかといった問い合わせが日常的にあったものと見受けられます。かといって営団側も番号にすると、今度は銀座線が1号線、丸ノ内線が2号線でないのはなぜかという騒ぎが起きていたでしょう。


2018年に板橋区郷土資料館で開催された「いたばし大交通展」図録102ページには、この件に関する記事が掲載されている、交通局発行のパンフレット「とえいこうつう 1978年4月号」が紹介されています。

それによると都営地下鉄路線名制定にあたり、1978年3月1日から20日まで公募が行われています。 

1号線については投票総数5,650
「浅草線」687、「新橋線」486、「江戸橋線」374、「押上線」299、「東銀座線」288

6号線については投票総数5,863
「三田線」661、「巣鴨線」620、「高島平線」537、「南北線」524、「大手町線」524

10号線については投票総数3,875
「新宿線」630、「神田線」524、「靖国線」306、「九段線」185、「大島線」178

いずれも投票数1位をそのまま路線名に採用すると記されていました。

ここで、おわびと訂正です。
本記事では従来、東北新幹線や上越新幹線の列車名公募の例をひきつつ、「先に交通局で内定されていて、お飾りのように公募を行ったのではないか。」という説を書いていましたが、その推定は誤りであることが明らかになりました。

訂正するとともに、ご覧になって不快の念をもたれた方、当ブログに対する信頼感をなくされた方、および当時の関係者・投票者の皆さまに謹んでおわびを申し上げます。



三田は都営交通にとって最大の拠点でした。電車の三田営業所はおおむねいつの時代でも初めのほうの系統番号を使い、新形式の電車ができるとまず配属されていました。あまり使い勝手がよくない結果の場合には責任を負わされる(休車、廃車になるまで三田で面倒を見る)というマイナス面もあったようですが、それをカバーして有り余るプライド持っていたと思われます。

地下鉄1号線は三田と浅草を結びつつも、昭和通り経由で都電の路線とはあえて重ならないように建設されていますが、都電が銀座から追放されて、三田電車営業所がつぶされたら当然「三田線」を襲名できる立場にあります。

しかし公募では1号線に「三田線」案は上位入りせず、6号線の神保町-巣鴨-志村ルートで「三田線」が「巣鴨線」を上回る結果になりました。「鉄道ピクトリアル」誌の江本廣一さんの記事によれば、三田営業所の運転士の中には日比谷方面を「裏線」と称していた人もいたそうです。都電から地下鉄に変わることで、ようやく日比谷ルートに日の目を当てることができたという考え方も成り立ちます。喜んだ人も少なくないでしょう。

一方で板橋や志村から見れば、慶應義塾の卒業生や関係者、もしくはその方面に家族親族でもいない限り、そう大きな意味は持ちません。むしろ、「また都心に召し上げられた」というコンプレックスを刺激させかねません。

川越街道の近くを走る私鉄会社は、埼玉県のための鉄道と受け止めています。
あの会社には今なお「西板線計画」がつぶれたことに対するコンプレックスが燻り続けているように感じられます。

板橋駅は所在地こそ板橋一丁目ですが、実質的には滝野川との共有財産です。
1980年代にできた小竹向原駅、浮間舟渡駅は板橋区民の利用が多く、板橋区の土地をかなり使っているにもかかわらず、駅事務室位置の関係でそれぞれ練馬区、北区の駅とされています。小竹町(元・北豊島郡上板橋町字小竹)を練馬区に持っていかれたことが改めて惜しまれます。改めて振り返れば、浮間舟渡駅ができてからも既に30年以上すぎていて、その間板橋区の鉄道路線や駅は“時が止まっている”ような印象を受けます。「三田線」という名称は、その沈滞ぶりを象徴しているように思えます。


さらにこの命名により、都電の歴史的検証に関しても思わぬ弊害が出ています。
三田から日比谷・神保町方面の路線は大正時代の車庫番号制導入の際既に「巣鴨二丁目-薩摩原」という、後年の志村坂上-神田橋にも匹敵するほどの長距離運用が組まれるほどの名門ではありましたが、戦後このルートを乗り通す需要は急速に減っていったのではないでしょうか。

もちろん都心で、沿線には官庁や公共施設、大企業の本社などが軒を連ねていますから乗客数は決して少なくなかったでしょうが、娯楽・消費系施設はあまり多くなく、昼間人口多い地域の短距離利用が中心で、三田から神保町を越えてさらに先まで行く需要はそう多くなかったと考えるほうが妥当でしょう。そこまで乗るのならば国電のほうが途中乗り換えはあっても、はるかに便利です。それゆえに2系統は本数を極端に減らされて、秋葉原(松住町)から上野、根津に行く37系統がメインルートになったのではありませんか。だからこそ、運転士も「裏線」扱いしたのです。

近年出版されている都電本ではほとんど「2系統は1系統に劣らぬ重要路線で…」と記されていますが、現在の地下鉄の名前が「三田線」であることにとらわれつつ論を始めている上に、「2」という番号から錯覚を起こして、一日の運転本数と乗客数が最下位だった記録をあえて見ていないような節が見受けられます。中には、「14本のみ運転」にふれながらも「重要系統」としている書籍まであります。「需要が減ってきたからこそ運転本数が減らされた、すなわち交通局にとってそう重要な系統ではなくなっていった。」という鉄道経営の基本に、皆さん何故に思い至れないのでしょうか。

交通局でも1964年(昭和39年)331日に東京都電車条例が施行された際に2系統を廃止して、三田-白山曙町の運転は「平日朝運転臨時37系統」とすれば後年の誤解も防げたのでしょうが、それをやらないあたりにも三田営業所のプライドが読み取れます。

公募1位の結果は尊重しなければなりませんが、1号浅草線ほど支持率は高くなく、巣鴨線案と僅差でした。「巣鴨線」ならば都電の歴史と断絶しませんし、他の鉄道事業者路線名とも重複しませんし、私も納得できたでしょう。今更ながら、惜しいです。

10号線は公募の時点では建設中で、駅名も仮名称でした。あまり具体的なイメージがわいてこなかったのか、投票数も少なく、上位の案もやや散漫な印象を受けます。「靖国線」としていたら後年えらい目に遭っていたかもしれません。 公共機関の名称選定は、かなりデリケートな問題をはらんでいます。


現在三田線に乗ると、平日の朝時間帯こそ高島平方面から相当混雑していて、三田まで行く人が多数派ですが、それ以外の時間帯や土日は神保町、大手町、日比谷までで多くの人が降りてしまい、三田を通る際は閑散としていることが少なくありません。このルートにおける乗客需要は、都電の頃とそう大きく変化していないようにも見受けられます。

今は三田が終点ではありませんし、駅ナンバーでも「M」を丸ノ内線に譲らされて「I」となっているため、「あの線を使う人はほとんど板橋区民なのだから、実質“板橋線”だ。」という意見を見かけると、乗客のほうがよほど本質を見抜く力があると思います。